「灰の水曜日」について、あるテーマを選んで論ぜよ。「灰の水曜日に象徴される人生観」
レントの第一日である『灰の水曜日』。この日から復活祭の前日の聖土曜日までの日曜日を除く40日間、キリスト教信者は断食を行いながらイエスの復活を祈り、自らの懺悔を繰り返す。その大事な始まりの時である『灰の水曜日』を表題としているところからも、この詩は懺悔の気持ちを連ねた宗教詩であるということがわかる。そしてこの『灰の水曜日』は、エリオットがアングロ・カトリシズムに回心した後に書かれたものである。全6部で構成されていて、初めの3部が2,1,3部の順に発表されたあと、まとまった一連の詩を作る目的で残りの3章が書かれたため、ひとつの詩として順番にテーマが発展していくものではないとされているが、しかしながら第一部と第六部は言葉やリズム等にいくつかの連動がみられ、それによって6つがひとつにまとまっているとかんがえられる。また、詩において、順を追って読み深めていく作業は必然的であるともいえるため、そこに何らかの関連性を見出そうとすることが無意識的に行われるということを考えられていないとはいえない。むしろ、この詩の流れは、エリオット自らの信仰心の変化と平行しているのではないだろうか。
第一部では、主人公の心に完全なる現世からの追放はみられない。花開く木々や水のあふれ出す泉とは、現世が与えてくれる最高の幸せでありそれを拒絶することが至高の愛にたどり着くための絶対的手段のひとつとなるのである。しかしまだその祈りの中には迷いと恐怖がある。象徴的存在である老いた鷲は、衰えた翼に意味はなく、ただ虚しく羽ばたくための存在となったことに落胆しつつも、それより悲惨なしぼみ乾いた空に絶望した。この老いた鷲は、詩人自信にも置き換えられる。成功を手に入れることができなくなった原因が自分だけにあるのであれば、そこから努力をして羽ばたくための力を蓄えようとする。しかしそこには自分を取り巻く環境も影響しているために、その空気が希薄であるならば、自分の力ではどうしようもなく、諦めざるを得ないのである。そしてこの状況から脱するために、死をもって生きるという方法をとるべく祈るのである。静かに祈って救いを待つ。心の平安を得ることは、信仰の結果なのである。
第2部で主人公は骨になった。ここでこの詩を象徴する色である「白」が現れる。白い豹、白い骨、砂漠の白い砂に白い聖女。「白」は清浄と信仰を意味する色である。また、聖母を象徴する「青」も含め、この詩を包みこむ色彩や空気には清清しさのようなものを感じる。それは、静かなる信仰心をもって、神に近づきたいと願い祈る気持ちが少しずつ階段をのぼるように到達されていくことが、前向きに表現されているからである。そして骨は神と対話する。そこで象徴的にあらわれるのが「むろの木」(juniper tree)である。動植物の多くは、生命や豊穣を象徴するものとしてとらわれるが、ここでの「むろの木」は、復活を暗示している生命のシンボルである。
第3部では、主人公は神に近づくための長く苦しい階段を、一歩進んだところからみている。これは、エリオットがダンテの『神曲』煉獄篇のきざはしの構想を借りて、精神の発展段階を描こうとしたものである。主人公のそれは、「振り返ってわたしは見た」と、第一の階段である「懐疑」の階段を過ぎたことを示していて、同時に今はもう第二の階にいることである。人を欺こうと希望と絶望の入り混じった顔をした階段の悪魔と闘っている自分自身も、眼下に見下ろすことができる。客観的にその姿
「灰の水曜日」について、あるテーマを選んで論ぜよ。「灰の水曜日に象徴される人生観」
レントの第一日である『灰の水曜日』。この日から復活祭の前日の聖土曜日までの日曜日を除く40日間、キリスト教信者は断食を行いながらイエスの復活を祈り、自らの懺悔を繰り返す。その大事な始まりの時である『灰の水曜日』を表題としているところからも、この詩は懺悔の気持ちを連ねた宗教詩であるということがわかる。そしてこの『灰の水曜日』は、エリオットがアングロ・カトリシズムに回心した後に書かれたものである。全6部で構成されていて、初めの3部が2,1,3部の順に発表されたあと、まとまった一連の詩を作る目的で残りの3章が書かれたため、ひとつの詩として順番にテーマが発展していくものではないとされているが、しかしながら第一部と第六部は言葉やリズム等にいくつかの連動がみられ、それによって6つがひとつにまとまっているとかんがえられる。また、詩において、順を追って読み深めていく作業は必然的であるともいえるため、そこに何らかの関連性を見出そうとすることが無意識的に行われるということを考えられていないとはいえない。むしろ、この詩の流...