対して、マハティールの演説においては、アジアは、大きな共通基盤の上に成り立っているとされている。もちろん、「アジア」と一般化されている中にも、例外は認められるが、アジア人を区別しているのは、民族性や皮膚の色ではなく、文化の違いであって、アジアには、アメリカのそれと同じように、共通の価値と習慣の体系が存在しAmericanと同様に、Asianも成立しているのだとされているわけである。しかし、AmericanとAsianを、同様な共通の価値や習慣の体系だと考えるのは、無理があるのではないだろうか。ここで私は、アイデンティティに注目したい。アメリカ人は、自分達はアメリカ人であるという共通の認識と、それに対する共通の誇りを持っている。しかし、アジア人という大きな枠で考えた場合、アジアはこれを持ち合わせていない。アジアは、マハティールの言う通り、大きな成功をおさめてきている。だがアジアには、アジアの各国が一緒に成長してきたという認識はおろか、一国ずつを見たところで、自ら成長してきたという認識が薄いのではないだろうか。各国の成長は、西欧諸国の影響、及び、援助によるところが大きい。アジアの人々は、成長を遂げ、先進国の仲間入りをしたとも言える今であっても、そのことを、劣等感と共に認識しているのではないだろうか。したがって、アジア人としての共通のアイデンティティを持たないことになり、よって、共有する価値体系というものも具体的に存在しないのではないかというのが私の考えなのである。
「アジア的価値」に対する見解
私は、問題1で引用されているような、アジア的価値に対する批判に賛成である。その理由として、Pertierraが述べているように、アジアは明らかに多種多様であり、アジア人が共有する価値というものは、あまりにもあり得ないものであり、暗示的なものにすぎないと考えるからである。
対して、マハティールの演説においては、アジアは、大きな共通基盤の上に成り立っているとされている。もちろん、「アジア」と一般化されている中にも、例外は認められるが、アジア人を区別しているのは、民族性や皮膚の色ではなく、文化の違いであって、アジアには、アメリカのそれと同じように、共通の価値と習慣の体系が存在しAmericanと同様に、Asianも成立しているのだとされているわけである。しかし、AmericanとAsianを、同様な共通の価値や習慣の体系だと考えるのは、無理があるのではないだろうか。ここで私は、アイデンティティに注目したい。アメリカ人は、自分達はアメリカ人であるという共通の認識と、それに対する共通の誇りを持っている。しかし、アジア人という大きな枠で考えた場合、アジアはこれを...