葉山嘉樹論
―淫売婦を中心にー
はじめに
葉山嘉樹は、一八九四年三月一二日、福岡県京都郡豊津村に生まれた。今から約百十三年前のことである。祖父は小笠原藩士と武士の家系にうまれ、父は京都郡長と、裕福な家庭であった。豊津尋常小学校、豊津高等小学校、県立豊津中学校とすすみ、中学を卒業した一九一三年に上京し、早稲田大学高等予科文科に入学する。しかし、父から貰った学費を使い込み、学費未納のために同年一二月には除籍となった。その後は船員としてカルカッタ航路の貨物船に水夫見習いとして乗船したり、室蘭横浜間の石炭船に乗船したりするが、左足を負傷し、下船。門司鉄道管理局の臨時雇や、戸畑の明治専門学校の雇など職を転々とする。名古屋セメント会社の公務係をしている際、職工である村井庄吉が防塵室に落下し大火傷を負うという事件に遭遇し、労働組合を作ろうとして馘首される。これをきっかけに葉山は労働運動をはじめるようになる。多くの争議に参加した結果、大正十年、大正一二年に検挙され、刑務所に入獄することになる。二回目に入獄した、巣鴨刑務所独房監で、「牢獄の半日」「淫売婦」などを執筆する。その後も「セメント樽の中の手紙」「海に生くる人々」「誰が殺したか」などを発表した。一九四五年十月十八日、五十二歳、満州からの帰宅途中、その波乱万丈の人生に幕を下ろした。
彼が生きた時代は、天皇主権国家であり、男尊女卑がまかり通り、出版物は検閲され、思想は弾圧された。生活水準の格差は大きく、人権などもまともに保障されておらず、労働環境はひどいものであるなど、私たちが生きている時代とは大きく異なった。文学はその時代に影響されやすいものであるが、中でも特に当時の労働環境や言語弾圧・思想統制などは葉山の作品にとても大きな影響を与えていると言えるだろう。私は、初めて葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」を読んだ時、大きな衝撃を受けた。現在の日本では、ホワイトカラーエグゼンプション法案が否決されたり、サービス残業や過労死が問題となったりと労働環境・労働問題に対して関心も高く、労働者側の不満は多い。しかし、それでも最低限度の労働環境(休日であったり、労働時間、最低賃金、社会保障や公衆衛生、労働組合など)はしっかりと整備されており、それが当たり前のことだと思っていた。しかしそれは葉山などのプロレタリア作家・労働運動家が活動した結果勝ち得たものであり、勝ち得る前までは「セメント樽の中の手紙」や「海に生くる人々」の中に描かれているように労働は危険かつ過酷なものであり、松戸与三のように満足に給料を得られない人達が沢山いた。私は、そんな労働者の姿を描き、文壇へ上る前には労働運動にも参加していた葉山嘉樹について論じてみようと思う。
葉山嘉樹は『文芸戦線』大正十四年十一月号に「淫売婦」を発表することによって、一躍文壇で新進作家として注目されるようになる。この『淫売婦』について、戦後、青野季吉氏は
世に知られた綜合雑誌のいはゆる檜舞台でなく、「文芸戦線」の誌上で、しかもはじめて活字になったかやうな一短編で、それほどの成功をかちえたといふことは、明治大正の文壇にも稀れな現象である。或は空前といっていいかも知れない。いま回想してみても、やや不思議な気がする位である。
(「作品鑑賞による現代日本文学史(Ⅲ) 葉山嘉樹『海に生くる人々』」
『教育国語』第四号 一九六七年三月)
と当時を思い起こしている。(注一)また、淫売婦についてまだ文学志望の青年として、小樽にいた小林多喜二氏は「「淫売婦」一巻はどんな意味に於ても、自分にはグァン
葉山嘉樹論
―淫売婦を中心にー
はじめに
葉山嘉樹は、一八九四年三月一二日、福岡県京都郡豊津村に生まれた。今から約百十三年前のことである。祖父は小笠原藩士と武士の家系にうまれ、父は京都郡長と、裕福な家庭であった。豊津尋常小学校、豊津高等小学校、県立豊津中学校とすすみ、中学を卒業した一九一三年に上京し、早稲田大学高等予科文科に入学する。しかし、父から貰った学費を使い込み、学費未納のために同年一二月には除籍となった。その後は船員としてカルカッタ航路の貨物船に水夫見習いとして乗船したり、室蘭横浜間の石炭船に乗船したりするが、左足を負傷し、下船。門司鉄道管理局の臨時雇や、戸畑の明治専門学校の雇など職を転々とする。名古屋セメント会社の公務係をしている際、職工である村井庄吉が防塵室に落下し大火傷を負うという事件に遭遇し、労働組合を作ろうとして馘首される。これをきっかけに葉山は労働運動をはじめるようになる。多くの争議に参加した結果、大正十年、大正一二年に検挙され、刑務所に入獄することになる。二回目に入獄した、巣鴨刑務所独房監で、「牢獄の半日」「淫売婦」などを執筆する。その後も「セメント樽の中の手...