芥川龍之介「秋」
【初出情報】
初出:「中央公論」大正九年四月
単行本:「夜来の花」新潮社 大正十年三月
【作者について】
明治二十五年(一歳) 東京市京橋区入船町八丁目一番地に、牛乳販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として、三月一日生まれた。
明治三十五年(十歳) この頃本に対する関心が高まり、図書館に通い馬琴、三馬などの江戸文学、それに鏡花、一葉などの近代文学を読みあさった。
十一月、実母ふくが亡くなる。
大正二年(二十二歳) 東京帝国文科大学(現、東大)英文科入学
大正三年(二十三歳) 二月、菊地寛や久米正雄らとともに第三次「新思潮」を発刊。処女作「老年」を「新思潮」に発表。
大正四年(二十四歳) 二月、初恋の女性、吉田弥生との恋が破局。この恋で芥川は「人
間の醜さ、エゴイズム」を知る。
十二月、漱石の門下生となる。
大正五年(二十五歳) 二月、「新思潮」に「鼻」を発表。漱石からも賞賛を受け、文壇への第一歩を踏み出す。
七月、東京帝国分科大学を卒業
十一月、漱石亡くなる。塚本文と婚約。
大正七年(二十七歳) 二月、塚本文と結婚。
大正八年(二十八歳) 三月、実父新原敏三が亡くなる。
六月、秀しげ子と知り合う。
大正九年(二十九歳) 三月、長男比呂志が生まれた。菊地寛の「寛」より命名。
四月、現代小説の冒険を試みた力作「秋」を「中央公論」に発 表。作風の転換となった。
大正十年(三十歳) 三月、短編小説集「夜来の花」を新潮社より刊行。「秋」はこの小説集の一番目に収録される。この装丁以降、龍之介の作品集の装丁はほとんど小穴隆一の手になった。
十一月、薄田宛「神経衰弱甚しく催眠薬なしには一睡も出来ぬ」
大正十一年(三十一歳) 次男多加志誕生。小穴隆一の「隆」より命名。
大正十二年(三十二歳) 鎌倉の平野屋の別荘で、同宿の岡本一平・かの子夫妻と知り合った。
大正十四年(三十三歳) 三男也寸志誕生。恒藤恭の「恭」より命名。
昭和二年(三十六歳) 四月、夫人の友人である平松麻素子と帝国ホテルで心中を図る
が、果されなかった。
七月二十四日未明、田端の自宅でヴェロナ―ルおよびジャールの致死量を飲んで自殺。理由は、「少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。」(手記)「生かす工夫絶対に無用。」(遺書)
【作品の周辺】
◇新作風への移行の不安(発表前)
「『秋』御褒めに預つて恐縮です自分では不慣れな仕事なので出来が好いのか悪いのか更に分からなくて閉口しています…何だか『秋』の出来栄えが気になって甚不快ですのその不快を句にして曇天二句を作りました
曇天や 蝮生き居る罎の中
曇天の 水動かずよ 芹の中(三月三十一日書簡)
◇自信を得たよろこび(発表後)
「今日『秋』を読み候一つ二つ気になる所なきには候はねどまづあの位ならば中央公論第一の悪作にても無之かる可き乎と安堵仕候…」(四月九日書簡)
「『秋』はたいして悪くなささうだ案ずるより産むが易かつたと云ふ気がする僕はだんだんああうふ傾向の小説を書くやうになりさうだ…」(四月九日書簡、瀧井孝作へ)
「『秋』三十枚なれど近々三百枚で感服させる事あるべし御用心々々々際僕は一つ難関を透過したよこれからは悟後の修行…」(四月九日書簡、南部修太郎へ)
【
芥川龍之介「秋」
【初出情報】
初出:「中央公論」大正九年四月
単行本:「夜来の花」新潮社 大正十年三月
【作者について】
明治二十五年(一歳) 東京市京橋区入船町八丁目一番地に、牛乳販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として、三月一日生まれた。
明治三十五年(十歳) この頃本に対する関心が高まり、図書館に通い馬琴、三馬などの江戸文学、それに鏡花、一葉などの近代文学を読みあさった。
十一月、実母ふくが亡くなる。
大正二年(二十二歳) 東京帝国文科大学(現、東大)英文科入学
大正三年(二十三歳) 二月、菊地寛や久米正雄らとともに第三次「新思潮」を発刊。処女作「老年」を「新思潮」に発表。
大正四年(二十四歳) 二月、初恋の女性、吉田弥生との恋が破局。この恋で芥川は「人
間の醜さ、エゴイズム」を知る。
十二月、漱石の門下生となる。
大正五年(二十五歳) 二月、「新思潮」に「鼻」を発表。漱石からも賞賛を受け、文壇への第一歩を踏み出す。
七月、東京帝国分科大学を卒業
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