中国の経済発展
― 発達と問題 ―
1、はじめに
中国、すなわち中華人民共和国が、1949年10月に成立し今に至るまで、政治的そして経済的に困難な状況を経てきたことは周知の事実である。66~77年の11年間に渡って続いたプロレタリア文化大革命は国中の至る所で悲惨な大混乱を生んだ。その翌年の78年から開始された改革・開放政策、それに続いて92年から導入された市場経済化政策、これらの政策によって中国の経済は急成長を遂げ、今や同国の経済成長率はアジア1と言われている。
しかし、そのような目覚しい発展の背景で、現在の中国ではどのような問題が勃発し、どのような対応が必要とされているのだろうか。今回は、プロレタリア文化大革命(文革)以後の中国の経済とその発展に際して起こっている種々の問題事項について論じていきたいと思っている。
2、文化大革命と経済改革 ―概要―
まずは文革から改革・開放政策までの概要を述べて整理したいと思う。文革時代の中国では、人々は11年間、四人組や紅衛兵の横行による恐怖を味わいながら過ごしていた。中央から地方までの文化人・知識人が次々と迫害され、政治や経済は混乱を極めた。それまでの教育制度が大きく崩壊したために、いわゆる「文革世代」である1950年代に生まれの現在50代前後の人々は十分な教育を受けていない。また文化物の面においては、毛沢東関係の他には何も生み出されたものはないとまで言われている。上に述べた通りその文化大革命は、76年に毛沢東が死去したことで終息を迎えた。江青女史ら四人組は逮捕され、翌77年には文革終結が明文化された。そして、鄧小平率いる改革・開放政策が開始されたのがその翌年の78年の暮れである。
鄧小平が推進した改革・開放政策は、毛沢東の進めた計画経済から生じた国家間の経済的格差が大きくなっていたのを受け、開始された。この改革・開放政策ではまず農村での家庭請負制度を認め、そうして農業生産量が上昇すると、郷鎮企業が全国に広がった。市営農家が認められるようになると、万元戸と言われる農民も誕生した。次に経済改革は都市部に移る。国有企業に半自主権を与えるとともに対外開放によって諸国の情報が大量に国内に入ってくることになった。そこで起こったのが89年の天安門事件である。学生や労働者が、民主主義や自由、また幹部腐敗の実態を訴えて暴動化したものであったが、指導部はこれを武力でもって鎮圧したという事件である。
この事件から三年後の92年に、鄧小平によって市場経済が導入された。これは社会主義市場経済と言われるもので、政治的には社会主義を維持しつつ、経済的には市場経済への移行を進めるというものである。この政策には「市場経済が即資本主義であるとは言えず、社会主義にも市場はある」という鄧小平の考えが基礎になっている。また、鄧小平はこの市場経済導入推進において経済特区や証券取引所などを設立するにあたって、それらの行為が資本主義か社会主義かを改めて問いただすことをよしとしなかった。経済や生活の発展に貢献し得るものならそれが資本主義か社会主義かなどという議論に時間を費やすべきではなく、また、その導入をまず実行し、先に豊かになった地域が貧しい地域を助ければいいという由の「先富論」を展開した。この鄧小平路線は後に、地域格差の拡大を受けて修正され、共に富を得ることを目指す「共同富裕論」の方が強調されるようになっていった。
3、経済発展の裏の問題点
ここまでが文革から市場経済導入までの概要だが、こういった鄧小平の行った経済改革によって中国にもたらされた成功
中国の経済発展
― 発達と問題 ―
1、はじめに
中国、すなわち中華人民共和国が、1949年10月に成立し今に至るまで、政治的そして経済的に困難な状況を経てきたことは周知の事実である。66~77年の11年間に渡って続いたプロレタリア文化大革命は国中の至る所で悲惨な大混乱を生んだ。その翌年の78年から開始された改革・開放政策、それに続いて92年から導入された市場経済化政策、これらの政策によって中国の経済は急成長を遂げ、今や同国の経済成長率はアジア1と言われている。
しかし、そのような目覚しい発展の背景で、現在の中国ではどのような問題が勃発し、どのような対応が必要とされているのだろうか。今回は、プロレタリア文化大革命(文革)以後の中国の経済とその発展に際して起こっている種々の問題事項について論じていきたいと思っている。
2、文化大革命と経済改革 ―概要―
まずは文革から改革・開放政策までの概要を述べて整理したいと思う。文革時代の中国では、人々は11年間、四人組や紅衛兵の横行による恐怖を味わいながら過ごしていた。中央から地方までの文化人・知識人が次々と迫害され、政治や経済は混乱を極めた。そ...