【学制改革と高等女学校】
高等女学校とは、かつて女子に対する中等教育を実施するために設立された教育機関である。男子における中等教育機関としての中学校とほぼ同等の位置付けの学校とされ、太平洋戦争終戦後の学校教育法の制定まで存在した。以下はその成立における経緯である。
文部省は明治五年に公布された学制に先立って、明治四年に官立女学校を東京に設置している(開校は翌年明治五年)。官立女学校は当初、入学時年齢を八~十五歳、修業年限は六年としており、同校は明治五年十一月に官立東京女学校へ改称、明治五年に教則の改定を実施した。この時に入学資格を「小学校卒業の女子で年齢十四歳以上」の者と定めている。(修業年限は六年のままである)。このことにより、東京女学校の中等教育機関としての性格が確立したが、明治十年に同校は廃校され、生徒は東京女子師範学校に移籍し、英学科・別科・予科にそれぞれ収容されたが、明治十二年にこれら三学科も廃止された。明治十三年に東京女子師範学校予科として再設置と言う複雑な経過を辿ったが、こうした組織改編・学校改廃は、明治初期に多く見られた現象であった。
明治十年の東京女学校廃止の後、政府は「教育令」の公布を実施した。この中で法令として、初等教育機関以外の「男女別学」が明文化されたことにより、女子の中学校進学は事実上不可能となり、「女学校」は女子における中等教育機関としての確立を余儀なくされた。明治十三年に設立された東京女子師範学校予科は二年後の明治十五年に廃止され、東京女子師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)の設置、明治16年の開校により、ここに初めて「高等女学校」と言う学制が制度化される基礎が確立した。付属高等女学校は下等・上等の二等として修業年限を下等は三年、上等は二年と定めた。また同時に入学資格として「小学校六年次の修了以上の学力がある者」と規定されたことにより、男子教育における中学校と同等の教育機関としての位置付けが為されたとされ、以後の近代教育制度の確立の際にモデルとされたのである。
学校制度に関する規定のうちに高等女学校の名称がはじめてあらわれたのは明治二十四年十二月十四日の中学校令改正の際においてである。その第十四条に新たに女子中等教育の規程が加えられ、「高等女学校ハ女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ施ス所ニシテ尋常中学校ノ種類トス 高等女学校ハ女子ニ須要ナル技芸専修科ヲ設クルコトヲ得」との条項を設けた。これによって高等女学校を尋常中学校の一種とし、男子の中学校に対応する女子の中等学校であることを法制の上で明らかにした。その他は、女子に必要な技芸専修科を設けうることを規定しただけで、修業年限、入学資格、学科目等についての詳細な規程は設けられなかった。
二十八年一月二十九日には「高等女学校規程」を定め、高等女学校がどのような教育を施す機関であるかを明らかにした。高等女学校規程は学科目、修業年限、入学資格、附設課程等の規定をおもな条項としており、その中で高等女学校の修業年限は六年とし、土地の状況によっては一年の伸縮を認め、入学資格は修業年限四年の尋常小学校を卒業した者と規定した。また修業年限に関して「入学生徒ノ資格ヲ高ムルニ従ヒ」三年まで短縮することができるとした。教授日数は年間約四〇週とし、毎週の教授時数はおよそ三〇時とした。その他二年以内の補習を受けさせることができるとし、また技芸専修科の附設課程について規定した。特徴として、尋常中学校と比較して修業年限は一年長くなっているが、入学資格の点では二年低くしたので、卒業年
【学制改革と高等女学校】
高等女学校とは、かつて女子に対する中等教育を実施するために設立された教育機関である。男子における中等教育機関としての中学校とほぼ同等の位置付けの学校とされ、太平洋戦争終戦後の学校教育法の制定まで存在した。以下はその成立における経緯である。
文部省は明治五年に公布された学制に先立って、明治四年に官立女学校を東京に設置している(開校は翌年明治五年)。官立女学校は当初、入学時年齢を八~十五歳、修業年限は六年としており、同校は明治五年十一月に官立東京女学校へ改称、明治五年に教則の改定を実施した。この時に入学資格を「小学校卒業の女子で年齢十四歳以上」の者と定めている。(修業年限は六年のままである)。このことにより、東京女学校の中等教育機関としての性格が確立したが、明治十年に同校は廃校され、生徒は東京女子師範学校に移籍し、英学科・別科・予科にそれぞれ収容されたが、明治十二年にこれら三学科も廃止された。明治十三年に東京女子師範学校予科として再設置と言う複雑な経過を辿ったが、こうした組織改編・学校改廃は、明治初期に多く見られた現象であった。
明治十年の東京女学校廃止の後、政府...