かゝやく日の宮論考

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    かゝやく日の宮巻論考
    一・はじめに
    源氏物語には、遥か昔より数多の研究者によってなされてきた膨大な研究史がある。その中から本レポートでは「かゝやく日の宮巻」をめぐる論争について研究史を整理し、その上で考えたことについて述べようと思う。
    ニ・かゝやく日の宮論争
     かゝやく日の宮論争が巻き起こる下地となった一つの問題がある。源氏物語成立論、もっと具体的に言うと源氏物語巻序についてである。この問題は五十四帖全体に広く横たわっているものであるが、今回はかゝやく日の宮に直接関連性の深い桐壺~若紫の五帖について述べる。現在私たちは桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫の順に物語を読んでいるが、どうもそれは紫式部が書き上げた巻序とは異なっているのではないかとするのが現在の主流な見解であるらしい。大正十一年和辻哲郎は、帚木の書き出しは桐壺を受けるものとして適切ではないとしたうえで、帚木が書き上げられた当時まだ桐壺巻は存在せず、後補されたものであるとした。それと同時に紫式部は源氏の原型となった別な物語から発想を膨らませて書いたのではないかという論旨の説を発表した。この説は後続の研究に多大な影響を与え、この後学会において、源氏物語の成立・構成論が盛んに取り上げられるようになった。
     かゝやく日の宮論争とは、現在の源氏物語には存在しないかゝやく日の宮巻の存否をめぐる諸問題である。これは和辻の構成論を享けてさらに詳細に展開することとなる。かゝやく日の宮の存否を議論するうえで、学説は当然だが大きく二つに分けることができる。すなわち巻があったのか、なかったのかという立場である。まずは「巻はあった」とする説について述べようと思う。「あり」だと主張した主だった研究者には阿部秋生、玉上琢弥、武田宗俊、池田亀鑑、風巻景次郎などがいる。彼らはいくつかの根拠を元に論を展開した。というのは、藤原定家著『奥入』にみられるかゝやく日の宮の記述、それに和辻の発表した桐壺と帚木の非接合性と、物語中にしばしばみられる読者にとって未知の情報を既知のものとして扱っている点などである。では各人の説を時系列に沿って説明する。
     阿部秋生は昭和十四年論文「源氏物語の成立順序」において桐壺~初音までの巻々を若紫グループと帚木グループに分け、帚木グループが後補されたとする説を発表した。この説を、池田亀鑑の分類法でいうところの第一部、つまり藤裏葉まで拡大して、その登場人物から若紫グループと玉鬘グループとに分類したものが武田宗俊の紫の上系と玉鬘系による分類法である。翌昭和十五年阿部に続いて玉上琢弥は「源氏物語成立攷」という論文で、源氏物語はもともと当時存在していた『輝く日の宮』という話をモデルにして最初短編小説として書かれていたもので、そのために帚木などとのつながりにおいて整合性を欠いているのではないか、と発表した。玉上も文中で「極めて大胆な仮説を提出しておく」と断っているとおりこの説は推測の域を出ないものであった。戦後しばらくして、昭和二十五年に風巻景次郎は「源氏物語の成立に関する試論」で奥入にある通り帚木三帖の本の巻にあたるかゝやく日の宮巻の必要性を説いている。また、構成論として一躍注目されることとなった、玉鬘系後補説を打ち出した武田は二十六年、桐壺と若紫巻の間にかゝやく日の宮巻の存在を想定した。同年池田亀鑑は、「新考源氏物語」で今の桐壺巻の前に成立した物語だと考えていたが、その後出した自著『物語文学』では桐壺巻の別名としてかゝやく日の宮という名前が今日残ったのではないかと発表しており、微妙に主張を転換している風に取れる

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    文学

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    かゝやく日の宮巻論考
    一・はじめに
    源氏物語には、遥か昔より数多の研究者によってなされてきた膨大な研究史がある。その中から本レポートでは「かゝやく日の宮巻」をめぐる論争について研究史を整理し、その上で考えたことについて述べようと思う。
    ニ・かゝやく日の宮論争
     かゝやく日の宮論争が巻き起こる下地となった一つの問題がある。源氏物語成立論、もっと具体的に言うと源氏物語巻序についてである。この問題は五十四帖全体に広く横たわっているものであるが、今回はかゝやく日の宮に直接関連性の深い桐壺~若紫の五帖について述べる。現在私たちは桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫の順に物語を読んでいるが、どうもそれは紫式部が書き上げた巻序とは異なっているのではないかとするのが現在の主流な見解であるらしい。大正十一年和辻哲郎は、帚木の書き出しは桐壺を受けるものとして適切ではないとしたうえで、帚木が書き上げられた当時まだ桐壺巻は存在せず、後補されたものであるとした。それと同時に紫式部は源氏の原型となった別な物語から発想を膨らませて書いたのではないかという論旨の説を発表した。この説は後続の研究に多大な影響を与え、この後学会に...

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