1.はじめに
大正末期から昭和期にかけて、バラバラに群化した「大衆」を「国民」というひとつのまとまりに統合するにあたって、重要な役割を果たしたのがマス・メディアである。大量の受け手に情報を発信する機能をもつマス・メディアは、政府に強制されたというよりむしろ自らの意思で戦争賛美の報道をおこなって国民の戦意を高め、戦争拡大の片棒を担ぐことになった。満州事変や日中戦争における国民の意識形成に、マス・メディアがどう関わったかを論じたい。
2-1.大衆の登場とメディア
大正末期の社会で、新しい社会の動向として盛んに論じられるようになったのが「大衆」の登場である。これは例えば、1918年に巻き起こった米騒動の大群衆、労働争議に出現する労働者、映画・演劇等娯楽メディアの大量の観衆観客、新聞雑誌等の大量読者、さらには都市繁華街の雑踏などさまざまである。当時の知識人たちは、既存の「民衆」にはおさまり切れない問題性をはらんだものとして「大衆」という新しい概念を論じた。その問題性とは、圧倒的な大量性である。
大正末期から昭和期にかけて、旧来の共同体やその規範から離れ、バラバラになって群化した大量の人間である「大衆」を何らかのかたちでまとめ、体制に統合化していくことが大きな課題となった。1925(大正14)年に普通選挙法が成立し、国民の意志を選挙・議会を通じて政治に反映させていく制度が誕生したが、それだけで「大衆」を統合化するのは難しかった。国家的政策として「大衆」の中に「国民」というまとまり意識を形成させることが大きな課題となったのである。
政治学者モッセによると、それまでの有産有識者による政治とは異質の「新しい政治」が「大衆の国民化」においては重要な方法となるという。それは、「民衆の一般意思に具体的表現を与える神話やシンボル、儀礼や祝祭によって、民衆を自発的に国民的な神秘的雰囲気に浸らせ」、「神話やシンボル、儀礼や祝祭」を駆使して「政治行為を民衆自身の参与を前提とする一個のドラマに変容」させるのである(ゲオルゲ・L・モッセ、佐藤卓己・佐藤八寿子訳『大衆の国民化』柏書房、1994年)。「新しい政治」は、ナチズムにおいて最も典型的に見られるが、決してナチズムの特異な現象ではなく、「大衆」の出現によって、その国民化が課題となった日本においても同様な政治様式が生まれた。
この「新しい政治」において重要な装置となるのがマス・メディアである。「大衆」の時代は、大量の読者・聴取者を受け手とするマス・メディアの時代である。マス・メディアが、神話やシンボルを社会に大量に還流させ、儀礼や祝祭を作り出す役割を果たすのである。
2-2.満州事変
1931(昭和6)年9月19日、各新聞朝刊は、18日奉天発電通の至急報として「奉軍満鉄線を爆破 日支両軍戦端を開く 我鉄道守備隊応戦す」と柳条湖事件の第一報を伝えた。ラジオ放送も同内容の臨時ニュースを放送した。満鉄線路爆破を中国軍の行為とし、日本軍は自衛権を行使して応戦したというメディアの伝える事実が、国民の意識を決定的に方向づけ、さらに日本の政治・外交をも拘束することになったのである。
各新聞社とも競って多数の記者を特派し、一斉に大報道戦に突き進んだ。中国軍の残虐を罵倒し、「皇軍」の勇戦・「皇軍」に感謝する在満日本人などを美文を駆使して語っていった。大見出しや大げさな文章とならんで、生々しい戦争写真が紙面を飾った。さらに各新聞社は、ニュース映画映写会、特派記者戦況報告講演会などのイベントを次々企画し、巡回開催していった。それらのイベン
1.はじめに
大正末期から昭和期にかけて、バラバラに群化した「大衆」を「国民」というひとつのまとまりに統合するにあたって、重要な役割を果たしたのがマス・メディアである。大量の受け手に情報を発信する機能をもつマス・メディアは、政府に強制されたというよりむしろ自らの意思で戦争賛美の報道をおこなって国民の戦意を高め、戦争拡大の片棒を担ぐことになった。満州事変や日中戦争における国民の意識形成に、マス・メディアがどう関わったかを論じたい。
2-1.大衆の登場とメディア
大正末期の社会で、新しい社会の動向として盛んに論じられるようになったのが「大衆」の登場である。これは例えば、1918年に巻き起こった米騒動の大群衆、労働争議に出現する労働者、映画・演劇等娯楽メディアの大量の観衆観客、新聞雑誌等の大量読者、さらには都市繁華街の雑踏などさまざまである。当時の知識人たちは、既存の「民衆」にはおさまり切れない問題性をはらんだものとして「大衆」という新しい概念を論じた。その問題性とは、圧倒的な大量性である。
大正末期から昭和期にかけて、旧来の共同体やその規範から離れ、バラバラになって群化した大量の人間...