情報化社会の進展と知の変容
一 二つの文化論からモード論へ
二つの文化論とパラダイム論
一九五九年、イギリスの著作家C・P・スノーは「二つの文化と科学革命」と題された講演で、科学革命----二○世紀前半における科学技術の発展をスノーは「科学革命」と呼んだ----の結果、西欧の知識人社会に大きな亀裂が生じつつあると論じた。すなわち、スノーは人文的文化(その代表としての文学者)と科学的文化(その代表としての物理学者)の間には越えがたい亀裂=溝があり、両者は互いに理解しあうことができず、言葉さえ通じなくなってしまっていると論じ、これは西欧文化における危機だと警鐘を鳴らしたのである (1) 。スノー自身、物理学者としての経験をもつ評論家・小説家という特異なキャリアの持ち主であり、文化の分裂に深刻な懸念を抱いたのであった。文化の分裂という危機に対するスノーの処方箋は、科学革命という現実を踏まえて、文系知識人が科学技術に対する基本的な認識と理解をもつよう努力すべきではないか、というものであった。
スノーの講演の数年後、クーンの『科学革命の構造』が出版された(一九六二年)。物理学者から科学史家に転じたクーンは、科学研究は「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与える」パラダイム(paradigm)を基盤に遂行されると論じ、科学の歴史を「パラダイム・チェンジ=科学革命」の歴史と捉えた (2) 。クーンの科学論は従来の累積的・連続的な科学史観を根底からくつがえすとともに、自然科学(の各専門分野)には明確なパラダイムがあるが、人文・社会科学にはパラダイムがみてとれないと論じて、自然科学と人文・社会科学の差異を浮き彫りにしたのである。「二つの文化」の存在を科学論の立場から裏付けたともいえる。
学問は二つ(文系と理系)に分断されているだけではない。学問の高度専門化に伴って、文系と理系それぞれの内部で際限のない専門細分化が進行していった。アカデミズム科学の発展は、知識社会に「二つの文化」を、さらには「百の文化」を作り出したのである。
大学紛争とその後
その一方、一九六○年代末、世界的規模で生じたいわゆる大学紛争は、大学のもつ知的権威を根底から揺るがした。大学紛争の原因や背景はもちろん一様ではなかったが、世界的に共通した要因として、専門細分化した学問研究とそれに埋没している学者研究者に対する批判があった。山積している社会的に重要な問題に有効に対処できない大学の学問に対する苛立ちが大学紛争というかたちで噴出したのである (3) 。裏返せば、大学とその学問に対する強い期待の表明でもあった。欧米の大学では、大学紛争を契機に、大学運営に学生の参加を認めたり、女性やマイノリティに配慮したカリキュラムが設けられるなど一定の制度的改革がなされたようである。しかし、我が国にあっては、大学紛争は見るべき成果を挙げることがないまま終結し、徒労感だけが残った。急速に大学改革のエネルギーは衰退していき、大学および大学人に対する期待は急速に消失した。そして、国家財政の逼迫を理由に、一九七○年代以降、長年にわたって、国立大学に対する予算は極力抑えられた (4) 。当然のことながら、大学は財政的困難に直面した (5) 。一九六○年代中葉に我が国の大学教育がマス段階(大学・高等教育進学者が十八歳人口の十五%を越える)に達し、これ以降、「教養主義」が急速に没落したという指摘もある (6) 。
これらのことが相まって、大学紛争後、特に我が国にあっ
情報化社会の進展と知の変容
一 二つの文化論からモード論へ
二つの文化論とパラダイム論
一九五九年、イギリスの著作家C・P・スノーは「二つの文化と科学革命」と題された講演で、科学革命----二○世紀前半における科学技術の発展をスノーは「科学革命」と呼んだ----の結果、西欧の知識人社会に大きな亀裂が生じつつあると論じた。すなわち、スノーは人文的文化(その代表としての文学者)と科学的文化(その代表としての物理学者)の間には越えがたい亀裂=溝があり、両者は互いに理解しあうことができず、言葉さえ通じなくなってしまっていると論じ、これは西欧文化における危機だと警鐘を鳴らしたのである (1) 。スノー自身、物理学者としての経験をもつ評論家・小説家という特異なキャリアの持ち主であり、文化の分裂に深刻な懸念を抱いたのであった。文化の分裂という危機に対するスノーの処方箋は、科学革命という現実を踏まえて、文系知識人が科学技術に対する基本的な認識と理解をもつよう努力すべきではないか、というものであった。
スノーの講演の数年後、クーンの『科学革命の構造』が出版された(一九六二年)。物理学者から科学史家に転じたクーンは、科学研究は「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与える」パラダイム(paradigm)を基盤に遂行されると論じ、科学の歴史を「パラダイム・チェンジ=科学革命」の歴史と捉えた (2) 。クーンの科学論は従来の累積的・連続的な科学史観を根底からくつがえすとともに、自然科学(の各専門分野)には明確なパラダイムがあるが、人文・社会科学にはパラダイムがみてとれないと論じて、自然科学と人文・社会科学の差異を浮き彫りにしたのである。「二つの文化」の存在を科学論の立場から裏付けたともいえる。
学問は二つ(文系と理系)に分断されているだけではない。学問の高度専門化に伴って、文系と理系それぞれの内部で際限のない専門細分化が進行していった。アカデミズム科学の発展は、知識社会に「二つの文化」を、さらには「百の文化」を作り出したのである。
大学紛争とその後
その一方、一九六○年代末、世界的規模で生じたいわゆる大学紛争は、大学のもつ知的権威を根底から揺るがした。大学紛争の原因や背景はもちろん一様ではなかったが、世界的に共通した要因として、専門細分化した学問研究とそれに埋没している学者研究者に対する批判があった。山積している社会的に重要な問題に有効に対処できない大学の学問に対する苛立ちが大学紛争というかたちで噴出したのである (3) 。裏返せば、大学とその学問に対する強い期待の表明でもあった。欧米の大学では、大学紛争を契機に、大学運営に学生の参加を認めたり、女性やマイノリティに配慮したカリキュラムが設けられるなど一定の制度的改革がなされたようである。しかし、我が国にあっては、大学紛争は見るべき成果を挙げることがないまま終結し、徒労感だけが残った。急速に大学改革のエネルギーは衰退していき、大学および大学人に対する期待は急速に消失した。そして、国家財政の逼迫を理由に、一九七○年代以降、長年にわたって、国立大学に対する予算は極力抑えられた (4) 。当然のことながら、大学は財政的困難に直面した (5) 。一九六○年代中葉に我が国の大学教育がマス段階(大学・高等教育進学者が十八歳人口の十五%を越える)に達し、これ以降、「教養主義」が急速に没落したという指摘もある (6) 。
これらのことが相まって、大学紛争後、特に我が国にあっては、知識生産の場としての大学の優位性、それに伴う大学人の特権性は急速に失われていった。大学人およびアカデミズムの権威が失墜したのである。実際、一九八○年代末から九○年代初頭にかけて、大学の研究教育環境の劣化は深刻化し、ついにはマスコミの取り上げるところとなった。例えば、週刊誌『アエラ』は「頭脳の棺桶、国立大学」という衝撃的なタイトルで国立大学の理工系研究室の惨状を報道した (7) 。時を同じくして、一九九一年には、大学設置基準の大綱化というかたちで、文部省による大学政策にも大幅な見直しがなされ、個々の大学の裁量と自主性を尊重するという名目のもとに大学の多様化・差別化が目指されるようになった。
ネットワーク社会の登場
一方、この間、大学を取り巻く一般社会は大きく変貌を遂げた。大衆化した大学・高等教育から送り出された多くの人材が社会の各方面に配置され、それに伴って、官庁・企業・民間団体などさまざまな場所に知的資源がストックされるようになった。そこに一九八○年代後半以降急速に進行し、現在もなお急展開しつつある情報化・コンピュータ化が到来した。かくて、さまざまな場所にストックされた知識や情報がコンピュータ・ネットワークを通じて流通し始めた。その結果、多くの人々が知識や情報にアクセスしやすくなった。さらに、知識を生産する、あるいは加工するということも従来よりはずっと容易になった。コンピュータ・ネットワークを通じて得られる資料やデータを駆使して文章を書き、それらを論文や書物として出版することが可能になったのである。出版という形をとらなくてもコンピューター・ネットワークで流すことも出来る。
アカデミズムの権威の失墜と情報化社会の進展が相まって、知識や情報を生産・ストックするセクターとして「産・官・学・民」の四つを想定した場合、学(大学)以外の三つのセクター(企業、官庁、民間)の比重が相対的に大きくなった (8) 。知識や情報が大衆化したとも言える。
知のモード論
このような事態を「大学の地位の低下」といった観点から慨嘆するのではなく、むしろ積極的に評価しようとする議論がある。現在起こりつつある事態を、知識生産の様式(モード)の根本的な変化と捉える視点である。
M・ギボンズらは、従来の知識生産の様式を「モード1」と呼ぶ (9) 。モード1とは、概ね、大学を中心としたアカデミズム科学的な研究のあり方、知識生産のモードである。パラダイムを共有する科学者による、科学者のための研究であり、学問のための学問とも言える。したがって、知識生産は、もっぱら大学人の専売特許となっていた。また、大学人は、自ら生産した知識が、役に立つか立たないかについて、無頓着であった(あるいは無頓着を装っていた)。知識の生産の場としての大学は、外部に対して閉じていた。「象牙の塔」にたてこもって、専門細分化した研究に勤しむ、というのが典型的な研究スタイルであった。その行き過ぎが、批判の対象となり大学紛争の引き金になったことは前述した通りである。
しかし、研究テーマが、社会の要請に応じる形で、例えば、地球環境問題といった広範で具体的なものになれば、研究は、当然にも、学際的・総合的にならざるを得ない。そこでは明確なパラダイムはないし、「パズル解き」的な研究では対応できない。換言すれば、固有の専門家もディシプリン(専門分野)も存在しない。同時に、科学者は、研究テーマを設定しそれを遂行するにあたって、研究費を直接負担しているスポンサーに対して、あるいは広く社会一般に対して、自らの研究の意義とその成果に「説明責任」(accountability)を課されるようになってきた。また、こういった研究の遂行にあたって、大学・企業・官庁の研究者相互の、さらには一般市民との協力が必要となってきたが、実際、コンピュータ・ネットワークを通じて協力が可能な条件が整ってきた。かくて、大学における科学研究は、外部に対して開かれつつある。このような研究や知識生産のあり方が「モード2」と呼ばれるのである。
ギボンズらの議論に即してモード1とモード2を対比してみると次のように整理することができる(表1)。
モード 目的・対象 担い手 問題の設定 方法 技能と経験 組織 社会との関係 モード1 科学science 科学者 学会 ディシプリナリ 均質的 階層的・永続的 自由と孤独 モード2 知識knowledge 実践家 市場 トランス・ディシプリナリ 非均質的 非階層的・一時的 説明責任 表1 モード1とモード2の比較
ネットワークの結節点としての大学
知識生産のモード1と2は、互いに排除し合うものではなく、むしろ互いに競合あるいは補完し合うものだと考えられる。とはいえ、モード2の登場は、モード1の拠点であった大学の機能とイメージを変容させたことは確かである。もはや、大学は「象牙の塔」に閉じこもり、「大学の自由と孤独」を主張し、「学問のための学問」に埋没することはできなくなったのである。この事態を大学の地位の低下とみることもできるし、実際、そのような側面があるのは確かだが、観点を変えれば、モード2的な知識生産が大きな比重を占めるようになった現状の中で、大学がその機能を変えた、あるいは変えつつあるとみるべきであろう。すなわち、大学は、大学以外の知識生産拠点と積極的に連携することによって活路を見出そうとしているのである。好むと好まざるとにかかわらず、研究費の面からも人材や情報の交流の面からも、この方向は不可避であろう。そして、現在のあるいは近い将来の大学は、かつての象牙の塔とは異なって、コンピュータ・ネットワークの結節点として機能し、知識の生産・蓄積そして継承に重要な役割を担っているといえるし、そこにしか大学が生き延びる道はないだろう。
とはいえ、大学がネットワークの結節点となるということは、大学が「大学資本主義」(Academic Capitalism)...