夫婦別姓について
いわゆる「選択的夫婦別姓法案」が、本年も成立しそうにない。男女雇用機会均等法と並んで、ジェンダー(社会的な性別)をめぐる社会改革の一つの到達点となりうるこの法案がなかなか実現しないのは、それ自体この国の社会の、ジェンダーに対する意識の希薄さを示すものとして、非難されるべきものかもしれない。
むろん私はこれについて賛成の立場をとる者である。しかし、そもそも夫婦別姓を何のために実現させるのか、賛成派の意見を見ても、私にはどうも釈然としないものが残る。夫婦同姓(通常は夫側の姓が選択される)が、直ちに性差別を意味するのか、これに別姓の選択肢を与えれば差別が解消されるのか、いやそもそもこれは性差別の問題なのか、考えれば多くの疑問が浮かぶ。(なお、そもそも婚姻制度そのものを廃止すべきとして、夫婦別姓を議論すること自体がナンセンスであるとする立場もある。しかし、これについては別個の論点が絡むので、ここでは議論を割愛する) 一般的には、夫婦別姓は、主に女性の側から主張される。すなわち、女性は一般的に結婚してから元の姓を名乗れず、社会的に不利益を被るのは性差別である、だから夫婦別姓を選択できる法制が必要である、と。また、夫の姓を受けて「嫁入りする」ことが、夫の「家」に入ることを意味するという、個人を重視しない戦前的な家制度の残滓への反発もある。 これに対し、反対派は、現行法でも妻側の姓を選択することは認められているのであるから、性差別にはあたらない、夫婦別姓を認めると行政事務が繁雑になるほか、家族の連帯感が損なわれる、などと主張する。 これらについてはそれぞれ納得できる部分もありそうでない部分もあるのだが、ただ、この問題が解決策の見えない迷路に迷い込んでいるのは、どうも個々人の価値観があるべき法制の姿に投影されているからのように思えてならない。 賛成派には「家族」より「個人」を優先させることが男女平等につながるという暗黙の前提があり、反対派には個人がそれぞれの性別に基づく性役割を担うことが「家族」を守るという、二項対立的な価値判断が前提にあって、互いの価値観をぶつけ合っている。 むろん私はどちらかといえば家族より個人に親近感を抱くものであるから、単純に賛成派に与して良いのでないかとも思うが、それ以前にそもそも「家族」と「個人」はきっぱり対立関係にあるのか、という素朴な疑問をもってしまう。 そもそも「家族」のもとになる婚姻は、男女(将来、同性婚法制を認めるなら男女とは限らない)の合意により行われる。もちろん力関係の問題として、男性側にイニシアチブがあることが多いが、当事者の十分な合意のうえに家族がつくられているのであれば、「個人」と「家族」は本来、対立関係にあるものではない。 このため、夫婦別姓を認めたからといって両性の平等が直ちに実現されるわけではないし、逆に同姓のままであるからといって、当事者個々人の十分な合意がないところでは、家族の連帯感は得られない。 ところで、姓は、第一次的には名と共に、個人を表す人格の一部である。第二次的に、家族を表すインデックスの役割を果たす。言い換えれば、姓を決める権利とは、個人の人格権に由来する。 ここで姓がこのような個人の人格権の範囲に属する以上、夫婦の姓をどうするかは、やはり当事者の合意によって決められるべきものといえる。 そして、現行のこの国の法制が夫婦別姓を認めていないことの問題点は、本質的には、それが直ちに性差別に結びつくという点ではなく、個人がどういう姓を持つかという点について、夫婦が別姓をもつという選択を許していない点にある。 このため、選択的夫婦別姓法案は、なによりも個人がどのような姓を名乗るか、という選択の自由を保障するために、支持されるべきものなのである。 そして、この個人の自由を尊重されてこそ、性差別も解消されるのである。この点、既存の議論はどうも主客が転倒しているように思えてならない。 もちろんこの観点からは、夫婦別姓にとどまらず、夫婦新姓も認め、さらには子の姓の選択権なども思い浮かんでくるが、夫婦別姓法案も実現していない段階での夢想はこの辺でやめにしておこう。 (May 2002)
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