性別の自己決定

閲覧数4,531
ダウンロード数75
履歴確認

    • ページ数 : 7ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    性別の自己決定 フレームワーク
    1.はじめに  近年、「性の自己決定」及び「性別の自己決定」という語を耳にする。性別をめぐる問題は、従来から相当に論じられてきたが、これまでは男性/女性の性別が固定的であることを前提に、男性女性間の差別の解消という形で論じられてきた。このため、堕胎の自由など一部の論点を除いて、自己決定権の問題としては認識されることは少なかったように思う。
     しかし、男性・女性の中にも多様性が認められること、トランスジェンダーやインターセックスのように、性別間の移行や中間的な性の問題を含めること等を考えると、すでに差別のみに基づく言説では説明できないのでないかと思う。ここに、自己決定権から見るジェンダー論を構築する意義がある。
     また、ジェンダーの問題に限らず、日本においてもマイノリティを自認する人々の権利意識は大変高まっているが、単に行政による一方的な保護を求めるだけでなく、自らの問題を自律的に解決する機運が出てきた中で、自己決定という概念はその中心に位置づけられつつあるように思える。
     しかし、今日の性科学や社会学の進歩により、「性別」概念が多義になってきたこともあるが、論者のいう「性」ないし「性別」の意味はまちまちである。このため「性別」の意味を確定せずに「性別の自己決定」という語を用いることは、むしろ混乱を招いているだけであるように思える。
     また、日本においては人権思想も一定限浸透してきた一方で、国家や共同体の利益の前に人権を包括的に制限しようとする思想も依然有力である。この中で、自己決定といっても、単なるエゴイズムと捉えられかねない。ここで、権利を主張する側も、むろん人権といっても絶対無制約なものではないわけだから、自らの権利を主張するばかりでは世の理解は得られない。このため、自己決定権とはいっても、その制約要因に絶えず目を向けた議論がなければ、大変一方通行で無意味な論争に終わろう。  従って、以下においては、まず自己決定権に関する議論の背景及び意義に目を向けつつも、自己決定されるべき「性別」の内容ごとに論点を分けながら、その制約要因に注意を払いつつ論じることにする。 2.自己決定権とは何か  自己決定権とは、自らの私的(private)な事柄につき、自らの意思の基づき、他者、とりわけ国家の干渉を受けずに自由に決定できる権利である。  自己決定権は、20世紀初頭以降のアメリカの判例法理において、広義のプライバシーの権利、すなわち「ひとりで放っておいてもらう権利」の一内容として定立されたものである。もう少し遡ればJ.S.ミルが『自由論』の中で、「他人の権利を害しない限りで、何をやってもよい権利」と述べたものが、その起源にあたろう。もっとも、自由に関する議論をすべて含めるなら、西欧においては、更に遡って議論が蓄積されていることになる。
     いずれにせよ、自己決定権は、他者の不当な干渉を排除し、個人の人格の自律を確保する意義をもつという意味で、つとめて自由主義的な考えに基づくものである。そして、身近なところでは、学校における服装や髪型の自由、医療におけるインフォームド・コンセント(十分な説明を受けてきた上での同意に基づく施術)、ジェンダーと関係するところでは、堕胎の自由をはじめとするリプロダクションの権利などにおいて、問題にされてきた経緯がある。
     ところで、障害を持つ者など、社会的に不利益を受けやすい者の自己決定権の行使については、単に他者の干渉を排除するというだけでなく、一定の公的機関の助力を想定する考えもある。その場合は、

    タグ

    資料の原本内容

    性別の自己決定 フレームワーク
    1.はじめに  近年、「性の自己決定」及び「性別の自己決定」という語を耳にする。性別をめぐる問題は、従来から相当に論じられてきたが、これまでは男性/女性の性別が固定的であることを前提に、男性女性間の差別の解消という形で論じられてきた。このため、堕胎の自由など一部の論点を除いて、自己決定権の問題としては認識されることは少なかったように思う。
     しかし、男性・女性の中にも多様性が認められること、トランスジェンダーやインターセックスのように、性別間の移行や中間的な性の問題を含めること等を考えると、すでに差別のみに基づく言説では説明できないのでないかと思う。ここに、自己決定権から見るジェンダー論を構築する意義がある。
     また、ジェンダーの問題に限らず、日本においてもマイノリティを自認する人々の権利意識は大変高まっているが、単に行政による一方的な保護を求めるだけでなく、自らの問題を自律的に解決する機運が出てきた中で、自己決定という概念はその中心に位置づけられつつあるように思える。
     しかし、今日の性科学や社会学の進歩により、「性別」概念が多義になってきたこともあるが、論者のいう「性」ないし「性別」の意味はまちまちである。このため「性別」の意味を確定せずに「性別の自己決定」という語を用いることは、むしろ混乱を招いているだけであるように思える。
     また、日本においては人権思想も一定限浸透してきた一方で、国家や共同体の利益の前に人権を包括的に制限しようとする思想も依然有力である。この中で、自己決定といっても、単なるエゴイズムと捉えられかねない。ここで、権利を主張する側も、むろん人権といっても絶対無制約なものではないわけだから、自らの権利を主張するばかりでは世の理解は得られない。このため、自己決定権とはいっても、その制約要因に絶えず目を向けた議論がなければ、大変一方通行で無意味な論争に終わろう。  従って、以下においては、まず自己決定権に関する議論の背景及び意義に目を向けつつも、自己決定されるべき「性別」の内容ごとに論点を分けながら、その制約要因に注意を払いつつ論じることにする。 2.自己決定権とは何か  自己決定権とは、自らの私的(private)な事柄につき、自らの意思の基づき、他者、とりわけ国家の干渉を受けずに自由に決定できる権利である。  自己決定権は、20世紀初頭以降のアメリカの判例法理において、広義のプライバシーの権利、すなわち「ひとりで放っておいてもらう権利」の一内容として定立されたものである。もう少し遡ればJ.S.ミルが『自由論』の中で、「他人の権利を害しない限りで、何をやってもよい権利」と述べたものが、その起源にあたろう。もっとも、自由に関する議論をすべて含めるなら、西欧においては、更に遡って議論が蓄積されていることになる。
     いずれにせよ、自己決定権は、他者の不当な干渉を排除し、個人の人格の自律を確保する意義をもつという意味で、つとめて自由主義的な考えに基づくものである。そして、身近なところでは、学校における服装や髪型の自由、医療におけるインフォームド・コンセント(十分な説明を受けてきた上での同意に基づく施術)、ジェンダーと関係するところでは、堕胎の自由をはじめとするリプロダクションの権利などにおいて、問題にされてきた経緯がある。
     ところで、障害を持つ者など、社会的に不利益を受けやすい者の自己決定権の行使については、単に他者の干渉を排除するというだけでなく、一定の公的機関の助力を想定する考えもある。その場合は、自己決定権も「国家による自由」、つまり社会権の性格をもつことになる。  そして、日本国憲法においては、最高裁が正面から認めたものではないものの、13条の幸福追求権の一内容として保障されるとされる。
     もっとも、ミルも「他人の権利を害しない限りで」と言っているように、自己決定権も絶対無制約なものではない。  すなわち、自己決定の結果が他人の権利と抵触する場合には、権利は制約される。たとえば、喫煙の自由も自己決定権の一種として論じられることがあるが、たばこを吸わない人の嫌煙権との関係では、制限されることがある。このような内在的制約が、一定限度で許容されることには疑いはない。
     では、社会共同体や国家の利益に基づく、外在的な制約は認められるだろうか。この点、自己決定権の概念は、このような集団的利益から、個人の私的領域の自由を守るために提唱されるものである。従って、前記の内在的制約に還元されるような集団的利益ならともかく、単に伝統や慣習、宗教的戒律に基づくからという理由で自己決定権を制限するとすれば、背理である。
     一方、パターナリズムに基づく制約はどうか。すなわち、自己決定権とは自己の意思において自らの行動につき、自律的に決定できる人格の存在を前提としているが、その人格が未だ自律に堪えうるとまで言えない場合、あるいは自己決定の結果、人格の自律性が不可逆的に傷つけられてしまうような場合、自己決定権は制約されるのでないか。たとえば、未成年者のように意思決定能力が十分でない場合、あるいは麻薬の使用のような、精神の自律性を破壊するようなものの場合は、一定限の制約を認めざるを得ないという見解が大勢である。
     ただ、具体的な個々の自己決定権の行使に対する制約の基準については、別途検討する必要がある。  そもそも、欧米で自己決定権がプライバシーの権利の一環として捉えられているのは、この権利が私的(private)な空間と公的(public)な空間の境界設定をなす権利だからである。なお、日本においてプライバシーの権利とは、自らに関する情報をコントロールする権利という意味に捉えられているが、これは広義のプライバシーの権利の一部でしかない。
     すなわち、近代市民社会においても、個々の人格がその利害を調整し合う場としての、公的な空間(市民的空間、市場)が措定される。この場においては、個人の権利は当然に無制約に認められるわけではなく、その時々の利害調整、社会的合意の範囲で認められるに過ぎない。
     一方、私的な空間においては、人格の自律性のもと、他者による干渉は排除されるのが原則である。すなわち、個人が他者と関係せずに行う行動については、そこから生じるリスクは自ら引き受ける代わりに、行動の自由が保障される。  このように見ると、自己決定権の制約の問題は、見方を変えれば、私的な空間と公的な空間の境界設定の問題ということができる。そして、個々の具体的な境界設定は、民主主義社会においては、その時々の社会的合意によるべきことになる。 3.性別とは何か  性別は、さまざまな公的書類に示されているように、男か女かの二つである。とはいっても、性別を画する基準は、現代の性科学の進歩によれば、一義的に決定されるものではない。法律等においても明文で規定されているわけでなく、わずかに下級審判例が、染色体により規定されるとしているのみである。  この点、従来からのの議論で用いられるのは、身体的性別(sex)、社会的性別(gender)、性的指向(sexuality, sexual orientation)の三分説である。  ただ、この三分類法においても、各々はさらに細分化される。すなわち、身体的性別とは、身体的な要素により決定される性別であるが、外性器や内性器、染色体等いずれを基準にするかにより異なりうる。社会的性別には、性別による社会的役割(gender role)の他、自らがどの性別に属するかの認識である、性自認(gender identity)も含まれる。
     この中で自己決定の対象となるのはいずれか。今挙げたものの中でも、現在の医療技術の限界などにより、自らの意思により改変できるものとそうでないものとに分かれる。例えば、身体的性別の中でも、外性器や容貌の一部は、外科手術により改変しうる。しかし、内性器は摘出は可能でも改変は不可能であり、生殖能力についても同様である。また、下級審判例が性別の根拠におく、性染色体も改変不可能である。従って、身体的性別の自己決定は、現在のところ、外性器や容貌の一部に限られる。  社会的性別については、性別役割については、困難は存在するものの、改変の余地は存在する。一方、性自認については、現在のところこれを改変するような心理療法は存在しない。このため、社会的性別の自己決定は、性役割についてのそれを言う。
     なお、一部トランスジェンダー当事者が、例えばMTF(男性から女性へ)の場合、生物学的には男性だが、自分は意識としては最初から女性であり、自己決定により女性を選んだのではないという言い方をすることがある。しかし、性自認についてはその言い方が当てはまるとしても、性役割については無意識に女性を選択していると言える点で、なお自己決定がなされているといえる。このことは性同一性障害をもたない男性や女性についても言える。  また、容姿など、身体的な性別の中でも社会的評価が関係する場合は、身体的性別だけでなく、社会的性別の問題として扱うことができる。外性器についても、次項では身体的性別の問題として扱うが、一般に性別は外性器によって決定されると思われているため、社会的性別の要素ももつと考え得る。 4.身体的性別の自己決定  前に見た通り、身体的性別のうち、現在の医療技術で改変しうるのは、容貌の他は外性器である。容貌については、美容整形として、費用をいとわなければ比較的自由に行うことができるので、ここでは論じない。ここで問題にするのは、いわゆる性別...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。