補論 戸籍上の性別訂正のための要件
1.はじめに 近年、性同一性障害に関する社会的認知が進む中、国会議員有志による勉強会が行われるなど、戸籍上の性別記載の訂正についても関心が高まっている。もっとも、すでに法律上の性別変更が法制化されている諸外国に比べ、日本においては性同一性障害による戸籍訂正の例は極めて限られている。のみならず、法律家や当事者による具体的要件の議論も緒についたばかりである。 公的書類の性別記載の変更の問題が、憲法上プライバシー権の問題であることはすでに前論で述べた。本補論ではその具体的要件について検討することにする。 2.海外における性別変更のための法制 本論では、日本における具体的要件を検討する前に、諸外国の法的な意味での性別変更について簡単に見ておきたい。 まず、日本の戸籍に相当する出生証明書(1)の性別記載の訂正について、立法による解決を行っている国・地域には、筆者の知り得た限りでは、ドイツ、スウェーデン、イタリア、オランダ、トルコ、カナダ・ケベック州、オーストラリア・南オーストラリア州である。また、フランス、スペインにおいては、判例上、性別変更が認められている。アメリカ合衆国では、イリノイ、アリゾナ、カリフォルニア、ハワイなど少なくとも22州・地域で、立法または判例上、性別記載の訂正が認められている。そのほか、形態は筆者の知り得たところではないが、フィンランド、南アフリカ、シンガポール、パナマなどでも法律上の性別変更が認められている。
一方、イギリスにおいては出生証明書そのものの性別記載の訂正は行われていないが、公的書類の性別記載を個別に訂正することは認められている。アメリカにおいて出生証明書の訂正が認められない州でも、個別の公的書類の訂正は行われていることが多い。 これらの国や地域で性別変更に関する法の整備や判例変更が行われたのは、アメリカでは1961年のイリノイ州を皮切りに、1960年代以降のことである。法制定についてみれば、ヨーロッパでは1972年にスウェーデンで、1980年に西ドイツ(当時)、1982年にイタリア、1985年にオランダ、1988年にトルコで法律が制定されている。
では、立法による解決を行っている国における、性別変更の要件についてみればどうか。 医学的要件については、性同一性障害であることの診断は、少なくともドイツ、スウェーデン、イタリア、オランダ、トルコの各国で要求されている。 この中で、ドイツ、スウェーデンの法律は、リアルライフ・テストを要求している。また、ドイツ、スウェーデン、オランダの各国では、性別再指定手術の実施が求められている。これに対しイタリア、トルコでは、手術は要件とされていない。もっとも、実際の運用では、手術を経ずに公的書類の性別変更が認められる例は、極めて限定的であるようである。
法律的要件については、まず年齢について、スウェーデンにおいては成年年齢である18歳以上との要件がつけられている。ドイツにおいては立法当時25歳以上との要件があったが、憲法違反との判決が出され、現在は年齢制限は設けない運用が行われている。そのほか、オランダ、イタリア、トルコに年齢制限はない。もっとも、年齢制限のない国においても、法律上の性別変更の前提となる医学的治療のガイドラインにおいて、年齢制限が設けられており、全く無制限というわけではない。 婚姻については、ドイツ、スウェーデン、オランダの各国では、申請時に非婚者であることが要求される。一方、イタリア、トルコでは申請時に既婚者であっ
補論 戸籍上の性別訂正のための要件
1.はじめに 近年、性同一性障害に関する社会的認知が進む中、国会議員有志による勉強会が行われるなど、戸籍上の性別記載の訂正についても関心が高まっている。もっとも、すでに法律上の性別変更が法制化されている諸外国に比べ、日本においては性同一性障害による戸籍訂正の例は極めて限られている。のみならず、法律家や当事者による具体的要件の議論も緒についたばかりである。 公的書類の性別記載の変更の問題が、憲法上プライバシー権の問題であることはすでに前論で述べた。本補論ではその具体的要件について検討することにする。 2.海外における性別変更のための法制 本論では、日本における具体的要件を検討する前に、諸外国の法的な意味での性別変更について簡単に見ておきたい。 まず、日本の戸籍に相当する出生証明書(1)の性別記載の訂正について、立法による解決を行っている国・地域には、筆者の知り得た限りでは、ドイツ、スウェーデン、イタリア、オランダ、トルコ、カナダ・ケベック州、オーストラリア・南オーストラリア州である。また、フランス、スペインにおいては、判例上、性別変更が認められている。アメリカ合衆国では、イリノイ、アリゾナ、カリフォルニア、ハワイなど少なくとも22州・地域で、立法または判例上、性別記載の訂正が認められている。そのほか、形態は筆者の知り得たところではないが、フィンランド、南アフリカ、シンガポール、パナマなどでも法律上の性別変更が認められている。
一方、イギリスにおいては出生証明書そのものの性別記載の訂正は行われていないが、公的書類の性別記載を個別に訂正することは認められている。アメリカにおいて出生証明書の訂正が認められない州でも、個別の公的書類の訂正は行われていることが多い。 これらの国や地域で性別変更に関する法の整備や判例変更が行われたのは、アメリカでは1961年のイリノイ州を皮切りに、1960年代以降のことである。法制定についてみれば、ヨーロッパでは1972年にスウェーデンで、1980年に西ドイツ(当時)、1982年にイタリア、1985年にオランダ、1988年にトルコで法律が制定されている。
では、立法による解決を行っている国における、性別変更の要件についてみればどうか。 医学的要件については、性同一性障害であることの診断は、少なくともドイツ、スウェーデン、イタリア、オランダ、トルコの各国で要求されている。 この中で、ドイツ、スウェーデンの法律は、リアルライフ・テストを要求している。また、ドイツ、スウェーデン、オランダの各国では、性別再指定手術の実施が求められている。これに対しイタリア、トルコでは、手術は要件とされていない。もっとも、実際の運用では、手術を経ずに公的書類の性別変更が認められる例は、極めて限定的であるようである。
法律的要件については、まず年齢について、スウェーデンにおいては成年年齢である18歳以上との要件がつけられている。ドイツにおいては立法当時25歳以上との要件があったが、憲法違反との判決が出され、現在は年齢制限は設けない運用が行われている。そのほか、オランダ、イタリア、トルコに年齢制限はない。もっとも、年齢制限のない国においても、法律上の性別変更の前提となる医学的治療のガイドラインにおいて、年齢制限が設けられており、全く無制限というわけではない。 婚姻については、ドイツ、スウェーデン、オランダの各国では、申請時に非婚者であることが要求される。一方、イタリア、トルコでは申請時に既婚者であってもよいが、性別変更と同時に婚姻が解消されるなど、一般に性別変更と婚姻の関係には慎重な態度が見られる。これは、既婚者が性別変更することにより同性婚が発生することが、宗教的、文化的理由から忌避されているためと思われる。
このほかには、オランダでは自国民だけでなく外国籍を持つ者についても、1年以上の定住を条件に性別の変更を認めていることは特記すべきある(3)。 ここで注意すべきは、立法が古いほど要件が厳格であることである。性別再指定手術の要否についても、立法が古いスウェーデン、ドイツが必要とされているのに対し、比較的新しいイタリア、トルコでは要求されていない。 3.日本の法制における性別変更の要件 では、日本の法制において、戸籍上の性別記載の訂正を認めるには、どのような要件が必要とされるであろうか。日本においては、公的書類上の性別変更のための特別の立法が存在しないため、いまのところ戸籍法113条の「錯誤」に該るとして、訂正を求める他はない。が、この条文には性別変更の具体的要件が示されているわけではないため、解釈によることになる。 この点、日本における戸籍上の性別訂正に関する先駆的な研究者である、大島俊之教授によれば、同条による訂正が認められるには、医学的要件として、1.性同一性障害であること、2.性転換手術を受けていること、3.性的外観が変容したこと、4.社会学的性が変容したこと、5.生殖能力がないこと、6.将来における再転換の可能性がきわめて低いことが必要であるとされ、法律的要件については、1.満20歳以上であること、2.完全な法律行為の能力を有すること、3.婚姻していないこと、が必要であるという(4)。
しかし、私はこれは厳格に過ぎるように思う。各要件の具体的検討は後に譲ることにするが、確かに戸籍などの公的書類の記載が様々な社会制度の基準となり、法的・社会的意味での安定性が求められるものである。しかし、前述の通り記載の訂正が認められるのは、憲法上のプライバシー権、さらには性別に関する自己決定権の行使の一環であるのだから、その権利の行使が不当に妨げられるものであってはならない。 以下、戸籍法113条による性別記載の訂正が認められる要件、あるいは将来的には性別変更のための明文規定ができた場合の要件を、医学的要件と法律的要件に分けて検討してみる。 a.医学的要件 医学的要件としては、まず性同一性障害であることの証明が必要である。性同一性障害に基づく性別変更が一方で、犯罪者の逃亡を助けるなどの濫用の危険を伴う以上、性同一性障害の証明により一定の絞り込みをかけるのはやむを得ないからである。 そして、性同一性障害であるか否かの判定は、本人が性別を変更しての生活に適合できるかを判断するリアルライフ・テストを中心に、心理的分析をふまえて総合的に行うべきである。リアルライフ・テストを中心に据えるのは、法律上の性別が本人の社会生活の基準となる以上、性別を変更しての生活に本人が適合しうることが前提となるからである。
もっとも現時点で、これを医師による証明に限ることには躊躇せざるを得ない。なぜなら性同一性障害を専門的に扱う医師の絶対数が不足しており、判断基準も確立されているとは言い難いからである。また、日本における特殊事情として、性同一性障害が医学界に認知される以前から、風俗産業に従事する性同一性障害者らにより構成される、いわゆるニューハーフ・コミュニティが存在し、性別を変更しての生活を長期間にわたり送っている者が少なからずいるという事実が存する。
そこで、性同一性障害の証明がリアルライフ・テストを中心にして行われる以上、一定期間出生時の性と異なる性別で生活していることの、知人・近親者等の証明をもって代用することも広く認めるべきである。性同一性障害の証明を要件として要求するのは、公的書類上の性別記載と実生活の性の不一致により法律関係の安定が害されることを防ぐためである。この点、現に出生時の性と異なる性別で社会生活をしているという事実が存在すれば、要件は満たされるというべきであるからである。 では、リアルライフ・テストの期間は、どの程度要求すべきか。この点、ドイツでは3年以上、スウェーデンでは相当期間の性別を変更しての生活を、法的に義務づけている。また、日本において性同一性障害ないし通称の継続使用による改名(戸籍法107条の2)を行う場合、必要とされた通称使用の期間は、最短で2年程度のものもあるが、7年以上にわたる例もある。平均的には3年から4年程度要求されているようである。性別変更についてはこれと同程度か、より長期間のリアルライフ・テストが要求されることになりそうである。しかし私見では、当事者利益の保護の見地から、最長でも2年程度にとどめるべきと考える(5)。 次に、性的外見の変容をどの程度要求すべきか。ホルモン療法による体型の変容や脱毛・育毛、整形手術、フルタイムの異性装はこの有力な判断材料となろう。 しかし私見では、これらは総合判断の一材料でしかないと考える。もちろん、明らかにもとの性別と同一の外観しか有していない場合は、一般的にこの要件を満たさないというべきであろう。しかし、ホルモン療法や整形手術を望まない者も少なからずいるし、それらによらずとも性的外見を変容させることは可能である。また、服装などのユニセックス、ジェンダーフリー化が進んでおり、なにをもって異性装というかの判断基準ははなはだ不明確である。そして、そもそも外観の選択は個人の自己決定にゆだねられる領域であることを考えると、「スカートをはいていないから女でない」式の固定的な見方は戒められるべきである。
さらに、社会学的性別の変容については、性的外観以上にその要求を制限すべきと考える。確かに、現在においても、職業上男性中心の職業、女性中心の職業といった区分が存在し、あるいは家庭内でも家事は女性の役割とされ、専業主婦の存在が尊重される気風も残っ...