家族について考えよう ドメスティック・パートナーへの随想
今、「家族」を考えようとすると、おそらく両極端の考え方が出てくるだろう。ひとつは、家父長を中心に、妻や子が整然と従うような、伝統的な家族観を再生しようとする考え、もうひとつは、家族制度を廃し、個人単位の社会を目指す考えである。中流階級の核家族という、ここ何十年の家族観が崩れはじめ、これから家族関係をどうすべきかが、不透明になっている。 一方で、同性愛者などの少数者は、これまで「家族」をもつことすら認められなかったから、新たに「家族」を求めるといわれる。同性婚やドメスティック・パートナーの議論が、にわかに高まりつつある。 このように、一見相反する方向において、「家族」が問われはじめている。 私が婚姻制度とかドメスティック・パートナー制度とかに関心を持ち始めた直接のきっかけは、いわゆる「性同一性障害特例法」で、「婚姻していないこと」、また両親が婚姻を解消していても、子から見て同性婚の状態になることを防ぐためといわれる、「子がいないこと」という要件がつけられたことである。 すでに婚姻関係にある者の一方が、性別の変更するために離婚を強制されるなら、単に当事者の愛情関係を壊すのみならず、生活基盤をも破壊しかねない。子をもつ当事者にとっては、子を殺めない限り性別を変更できない、とさえいわれる。 もっとも、世間、というより一部の保守派の考えであろうが、同性愛者によるそれを含めて、同性によるパートナーシップに、根強い拒否反応があるのは事実である。同性愛者の方が、「性同一性障害者」より、遥かに数が多く、運動の蓄積があるにもかかわらず、「性同一性障害特例法」が、このような条件下で、同性のパートナーシップ法制より先に成立したことは、この異性愛主義の根強さを物語るものである。 それゆえ、別の文章に書いたとおり、これが単に同性婚法制がないから設けられた要件である、と形式的に考えるのは、背後にあるホモフォビアや異性愛主義の問題を看過してしまうように思える。 従って、同性のパートナーシップを考えるには、ホモフォビアや異性愛主義の問題を、避けて通ることはできない。 しかし、一方で疑問もわく。なぜ「家制度」により抑圧を受けてきたマイノリティが、「家」を目指すのか、と。異性愛主義に基づく「家」は、マイノリティ個人を抑圧するが、同性愛を基盤にすれば、マイノリティ個人は抑圧されないのか。異性愛が同性愛に変わっただけで、個人でなく「家」を単位とする社会は、そのまま存続するのではないか。 もちろん、同性のパートナーシップの議論があるのは、必要があってのことである。性的マイノリティであっても、生活を共同で行い、パートナーが病に倒れたときや老後の介助や、相続の問題など、必要に迫られてのことではある。確かに、共同生活を望む人がいる以上、すべてを個人単位の制度に還元することは、おそらく不可能であろう。 そこで、立てるべき問いは、おそらくこういうものになるであろう。 個人の尊厳の原理に根ざした、パートナーシップとは何か。 これは何も新しい論点ではなく、憲法24条2項は「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない。」と規定している(なお、同条1項には、同性婚を否定しているといわれる「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」の文言がある)。そして、現在の家族法も、戦後まもなくの制定当時には、それなりに憲法の趣旨を反映したものであったかもしれない。ただ、あるいは家族をつくることが当然でなくなった、セクシュアリティの多様性が表に出た、今の時代にはこのような、画一的な制度では、対応できないということである。 それゆえ、異性愛者に認められている婚姻の権利を、同性愛者にそのまま認める、という解決(すなわち同性婚)は、むしろ安易に過ぎる解決であろう。 これまでのドメスティック・パートナー制の議論では、異性愛主義に基づく婚姻制度を前提として、その利益の一部を同性愛者にも認めるという、準婚制度というニュアンスが強かったように思われる。 しかし、むしろドメスティック・パートナー制に求められるのは、在来の婚姻制度にない、個人の尊厳に根ざしたパートナーシップの試みである。因習的な「家」でなく、同性愛、異性愛を問わず、生活を共にするものの利益のための制度として考えられなければならない。そのためには、従来の異性愛主義、家父長制といった、古い家族制度を規定している基本原理を、もう一度問い直す必要があるように思う。
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