「障害は個性」再考
1年ほど前、性同一性障害は「障害」か否か、という点について書いたことがある。 (参照) ここでは「障害は個性」だという、ある障害者団体の掲げていたテーゼをもとに、性同一性障害も身体や精神の障害も、個人の持つ個性の一つとして認め合うことが出来る、という結論を出したように思う。 しかし、この「個性」とは何か。考え詰めると意外にわかりにくい。英語に訳するとこのことはよくわかる。individualnessでは曖昧模糊としているし、idiosyncracy(特異性)であろうか、identity(同一性,帰属)の方が正鵠を得ているだろうか。
文献学的に、この言葉の生まれた文脈をみると、「個性」はidentityであろうと思う。「青い芝の会」の活動をみると、「健常者」の文化に対して、「障害者」の文化をうち立て、「健常者」中心の社会を相対化する、というのが、この「障害は個性」というテーゼに込められた戦略である。ブラック・ナショナリズムのような運動など、いわゆるマイノリティ独自の文化を尊重する流れに位置づければ、このことはより明確になる。この障害者の側が社会に合わせるのでなく、社会の側も障害者の存在を尊重するという発想は、意味合いはかなり変容したとはいえ、今日のバリアフリーの考えの源流である。
では、性同一性障害に限らず、ジェンダーの問題に置き換えると、これはどういうことを意味するだろうか。男性であること、女性であることは特異性なのだろうか、アイデンティティなのだろうか。言いかえれば、女性であること、男性であることの身体的属性が、「個性」なのだろうか。それとも女性である意識、男性である意識、つまり性自認が「個性」なのだろうか。あるいは男性が形成してきた文化、女性の形成してきた文化が「個性」なのだろうか。 このような問がたてられたのは、もちろんこれ初めてではない。フェミニズムにおいて、女性の有してきた文化をアイデンティティとして積極的に評価するか、あるいはそのような文化はむしろ性差別の源泉であると批判的に見た上で、身体的性別にかかわらず社会に受け入れられる制度を整備することを優先するか、という点で対立が生じてきた。いわゆるエコロジカル・フェミニズムとラディカル・フェミニズムの対立である。この対立に限らず、ジェンダーをめぐる議論は、身体、性自認、社会的役割、文化等の性別を形成するさまざまな要素の、どれが可変的で、どれが不可侵かをめぐる対立であることが多いように思う。
そして、これは「青い芝の会」がとった考え方に近い解釈であろうが、女性であること、男性であることという性自認や文化をかけがえのないものと考える人々は、極めて肯定的に、性別はアイデンティティだというであろう。一方、女性であること、男性であることという身体性や社会的役割を否定的に考える人々は、幾分否定的に、性別は特異性に過ぎない、というであろう。 このように、「個性」という言葉は極めて容易に使いうるがゆえに、語る人によってさまざまな意味を含みうる。そのため、いざ議論になると、どうも混乱のもとになりかねないように思える。 もっとも、私はこの「個性」という言葉の包容力に賭けてみたい。すなわち、「個性」とは「個人の尊厳」であることに。ジェンダーに関する立場はいろいろとあり、対立が絶えないわけであるが、いずれの立場に立つにせよ、見失ってはならない目的が、個人の尊厳である。 だからこそ、私は、「障害は個性」であるのと同様、「性別は個性」であると、あえて声を大にして言いたい。
(Dec 2001)
資料提供先→ http://homepage2.nifty.com/mtforum/ge016.htm