◇日時 平成13年2月6日 13:30~16:00 ◇場所 奈良市法蓮町757-2「春日野荘」(畝傍の間) ◇発言のポイント I 意見交換(幼児教育について) 子どもの幸せを第一義に、親の楽しみは二の次に 幼稚園を通して社会参加を、親も子も成長のチャンス早急に地域の持つ教育力の再構築を現在の家庭状況では体験できないものを保育園、幼稚園で保育園、幼稚園では基本的な社会性についてのしつけを厳しく保育園、幼稚園の教育においても、両性の視点が必要女性の社会進出としつけ。専業主婦の役割の再検討子育てに対する社会的理解を一時保育の充実、子どもとの遊び方、接し方を教える地域に開かれた保育園、幼稚園を 母親の活力を地域の行事に活かせ幼児教育における父親の役割の再認識親は子育てに自信を持て保育所、幼稚園、保健所の連携及び保育所、幼稚園、小学校の関係の見直しをプロジェクト的・実験的に実施する。 親の監護力を育てる支援策を新たな地域社会づくりの核にPTA I 意見交換(幼児教育について) 【会長】 前回、基調提言をいただいた幼児教育について意見をいただきます。 (子どもの幸せを第一義に、親の楽しみは二の次に) 【委員】 子供というのは、はっきり言いまして、親の責任といいますか、親の生活をしていく力、これが子供たちに直接返されてきているように思います。 入学してくる子たちが、その親の保育というか、養育の仕方によりまして自分の力を学校で発揮できない、できる、そういうことに直接かかわってくると思います。 昔の親が子供たちにどういう教育をしたのか、この辺はわからないわけですけれども、今は大人がやはり自分の生活をまずエンジョイするというか、楽しむというか、自分も幸せにならなければというのを第一義に考えて、子供は第二義的な扱いをしているように感じて仕方がありません。やはり親は、こんなことは私の口からもう申すまでもありませんが、自分の楽しみはこれはもう二の次にして、子供の幸せ、これをまず第一義に考えるべきです。 学校のほうでは家庭教育学級とか、あるいは、授業参観の後の学級懇談、あるいは全体の教育講演会などをたびたび計画をするわけです。しかし、そういう場に出席していただける人は少ないです。また参加していただける人は、ふだんそういうことを勉強されている方か、考えておられる方、悩んでおられる方でありまして、本来、参加していただきたい人には参加していただけません。 そういう親を持った子たちを学校はどういうふうにして育てていくか。学校では、親ができないからいたし方ないんだというのではなく、親のできない分も含めてというか、親ができるできない部分を含めて子供たちをどのように養育していくか、これを考えなければならない。それで情操面において音楽、読書、それからもう一つは、やはり厳しいしつけというところも忘れてはならないと思っております。 子供たちはやはり純粋ですから、学校の教員側、教師側のやはり考え方あるいはしつけの仕方によってある程度どうにでもなると思います。 返事はきちっとする、それから、集会・朝会等のときにはやはりきちっと立たせる。 もっと胸を張って堂々と歩きなさい、前かがみになって歩いてはいけないということしつけとし徹底していこうと思っています。 ところで10時になってもまだ外へ親が子供を連れ出して歌を歌いに行ったりしているというのを聴きましたが、これはもう私も現に目撃をいたしました。10時を過ぎているのにお母さんと一緒に歌を歌っている。この子たちはあす学
◇日時 平成13年2月6日 13:30~16:00 ◇場所 奈良市法蓮町757-2「春日野荘」(畝傍の間) ◇発言のポイント I 意見交換(幼児教育について) 子どもの幸せを第一義に、親の楽しみは二の次に 幼稚園を通して社会参加を、親も子も成長のチャンス早急に地域の持つ教育力の再構築を現在の家庭状況では体験できないものを保育園、幼稚園で保育園、幼稚園では基本的な社会性についてのしつけを厳しく保育園、幼稚園の教育においても、両性の視点が必要女性の社会進出としつけ。専業主婦の役割の再検討子育てに対する社会的理解を一時保育の充実、子どもとの遊び方、接し方を教える地域に開かれた保育園、幼稚園を 母親の活力を地域の行事に活かせ幼児教育における父親の役割の再認識親は子育てに自信を持て保育所、幼稚園、保健所の連携及び保育所、幼稚園、小学校の関係の見直しをプロジェクト的・実験的に実施する。 親の監護力を育てる支援策を新たな地域社会づくりの核にPTA I 意見交換(幼児教育について) 【会長】 前回、基調提言をいただいた幼児教育について意見をいただきます。 (子どもの幸せを第一義に、親の楽しみは二の次に) 【委員】 子供というのは、はっきり言いまして、親の責任といいますか、親の生活をしていく力、これが子供たちに直接返されてきているように思います。 入学してくる子たちが、その親の保育というか、養育の仕方によりまして自分の力を学校で発揮できない、できる、そういうことに直接かかわってくると思います。 昔の親が子供たちにどういう教育をしたのか、この辺はわからないわけですけれども、今は大人がやはり自分の生活をまずエンジョイするというか、楽しむというか、自分も幸せにならなければというのを第一義に考えて、子供は第二義的な扱いをしているように感じて仕方がありません。やはり親は、こんなことは私の口からもう申すまでもありませんが、自分の楽しみはこれはもう二の次にして、子供の幸せ、これをまず第一義に考えるべきです。 学校のほうでは家庭教育学級とか、あるいは、授業参観の後の学級懇談、あるいは全体の教育講演会などをたびたび計画をするわけです。しかし、そういう場に出席していただける人は少ないです。また参加していただける人は、ふだんそういうことを勉強されている方か、考えておられる方、悩んでおられる方でありまして、本来、参加していただきたい人には参加していただけません。 そういう親を持った子たちを学校はどういうふうにして育てていくか。学校では、親ができないからいたし方ないんだというのではなく、親のできない分も含めてというか、親ができるできない部分を含めて子供たちをどのように養育していくか、これを考えなければならない。それで情操面において音楽、読書、それからもう一つは、やはり厳しいしつけというところも忘れてはならないと思っております。 子供たちはやはり純粋ですから、学校の教員側、教師側のやはり考え方あるいはしつけの仕方によってある程度どうにでもなると思います。 返事はきちっとする、それから、集会・朝会等のときにはやはりきちっと立たせる。 もっと胸を張って堂々と歩きなさい、前かがみになって歩いてはいけないということしつけとし徹底していこうと思っています。 ところで10時になってもまだ外へ親が子供を連れ出して歌を歌いに行ったりしているというのを聴きましたが、これはもう私も現に目撃をいたしました。10時を過ぎているのにお母さんと一緒に歌を歌っている。この子たちはあす学校でどういう状況で学習に取り組めるか、ちょっと大変恐ろしいというか、悲しいというか、寂しい気持ちになったこともございます。 (幼稚園を通して社会参加を、親も子も成長のチャンス) 【委員】 私、自分自身の子どもが幼稚園のときのことをいまだにお母さん方によく話をします。私自身、仕事もしていましたけれども遊ぶだけ遊んで、結婚しまして、家庭に入りますと子供をもうけて、家庭とその周辺だけの自分の小さい社会ができあがります。その中から、初めて親も子も幼稚園教育の中に放り出される。それまではちょっとしたお稽古教室は行きますけれども、子供がピアノレッスン等に行くところの仲間の何人かの儀礼的な社会、季節のごあいさつをするぐらいのつきあいです。ところで初めて幼稚園という広い場に入って、先生がいて、それから横のつながりとして同じような立場のお母様方と知り合いになれて、その中で自分自身も自分の子育てに対して、他者との比較で相対的に評価できる初めての親の年代です。 それで、幼稚園のときに、保護者会とか交通安全母の会だとか、いろいろな会のときには積極的に参加する必要があると思います。それが自分の社会へ出る社会参加の第一歩であり、ともかく親も子もそこから社会の一員としてともに育っていくチャンスがあるのだと。 私が、最近、思いましたのは、通園バスのグループ同士だと思われる方たちが、ファミリーレストラン等でよくお話をされています。その話を聞いていると、完全に井戸端会議的なもので、進歩のある話題ではありません。このような様子を見て、初めて保育園、幼稚園へ行かれたときのお母さんの子育て支援という部分が何がしかの形であれば、例えばお母さん方は異年齢で、このごろ高年出産の方も多いし、20代の方もいらっしゃる。そういういろんなお母さんの中に、地域の中で何かをなさっている方だとか、子育てが終わった方たちにお話ししていただければと思います。このような支援策を、一つの学校では大きすぎるので、幼稚園とか保育所という小さなコミュニティーの中で立ち上げていただければ、行政サイドでそういうようなことをしていただけるような形があれば、もう少しお母さん方の話も実りのあるものになるのではないでしょうか。 何かそういう策がこういうところで提言できて、行政を動かせるような形になればなというのをよく考えます。 (早急に地域の持つ教育力の再構築を) 【委員】 昔から私自身がいろいろ経験してきた、地域の親の役割というようなことをお話ししたいと思います。何がきっかけでこう思ったかということですが、1カ月ほど前、近鉄のある駅で人を待っていました。そうすると女生徒二人を含めた五、六人の高校生が、私の近くで地べたへすわり込み始めました。そのうち1人の女の子がたばこを出して吸いかけました。これは注意すべきだと思って、そばへ近づいて、話しかけたら、じろっと見て、かまわないで欲しいみたいなことを言うんですね。これは少し危険な状況かなと思ったのですが、なお高校生たちに話しかけたら、吸いかけたたばこを消しまして、すっと散って行きました。 そのようなことがあってから、私が小さいときには、何かしたときに必ず近所の人たちに怒られたということを思い出しました。例えばよその柿を取りに行ったら、必ず叱られました。叱られながらも、どこか温かみがあって、後で素直に反省できるような何かが残ったような、そんな気がしていました。 どこかの人、あるいは、もっと大きく言うと、世間あるいはだれかが叱るという形で親からいろいろと話をされながら大きくなってきて、これはこんなことをしたらいろんな人たちから怒られ、しかられるという、そういう感覚を持って大きくなってきました。 ところで、今でも各地には祭りがあります。その中の子供の通過儀礼としての祭り、子供が無事に育ってくれるように、健康に育ってくれるようにということで、墨つけ祭りとか、あるいは砂かけ祭りとか、あるいは何々祭りとかというのが、奈良県でもたくさん伝統行事として残っています。本当に地域の人たちが子供にかける思いが、祭りだけの行事化だけに終わっていないのかと最近は気にかかっています。また地域では子供会があったり、あるいは、私達のときは青年団があって、そんな地域的団体の中で、悪いこともいいことも教えてもらい、人と人との関係というものをどうしたらいいのかということを教わってきたように思います。 ところが、今、いわゆる広い意味での世間というもの、別な言い方をするならば、地域の教育力と言ったほうがいいかもわかりませんけれども、もうなくなりつつ、あるいはほとんどなくなっているのかというほど地域のほうから何も構われないし、あるいは、何をしていても何も言われないという状況になりつつあります。 何故こうなってきたかと言いますと、例えばパソコンなどの情報機器の操作にみるように、子どもたちが関心を持っている事柄について大人が子どもに教えることができない。大人たちの経験や知識が、子どもたちにとって役に立たない、あるいはそのように感じるということ、つまり、本当に子供に何をどうしたらいいのかと、大人側がまずとまどっているというのが一つ。同時に、先ほどの大人側がもう自由に自分たちの楽しみばかりをしているという、その辺にあるのだろうと思います。 そのことを思いますと、何とかもう一度、いわゆる家族よりも世間がこわかった時代、今失いつつある地域の教育力と言われる世間さま、そういうものがどういう形でつくれるのかとつくづく考えますが、それは困難な気がします。大人は今の子供たちよりも最近の文化についてはもう全く遅れておりまして、教えようということはできない。本当に無力な、非力な、そんなことを思いながら、しかし、叱ることは叱る、やろうという気持ちも持っているわけです。私は、これからの将来、地域で子供らに何かひとつ叱れるような、そういう部分をつくり上げることができないだろうかと考えています。...