漢文学 合格レポートです。
「「任少卿に報ずるの書」における司馬遷の思想について」
参考用としてご使用ください。
「任少卿に報ずるの書」における司馬遷の思想について
司馬遷は前漢の歴史家で、名は遷、字は子長といい、7歳ごろまで夏陽の田園で過ごすが、6歳の時に父である司馬談が太史令となり、長安の茂陵に移る。司馬家は代々歴史・天文・地理などをつかさどる歴史官の職で、父、談も天文・易学・道家思想に通じていたため、父に従って学問に励んだ。20歳になった司馬遷は、天下遊歴の旅に出て、長江流域で楚の憂国詩人屈原を、九江では禹の治水伝説をしのび、越王勾践の都会稽をも訪れる。さらに、北方泗水のあたりから魯の都曲阜に行って孔子の遺跡を回り、漢の高祖劉邦の出身地沛を経て、魏の都大梁から帰路についた。その2年間で収集した伝承資料や、司馬遷自ら歩いた地理の知識が「史記」の記述に大きく影響したとされる。
前99年、将軍李陵が匈奴に降伏して武帝の怒りに触れた。司馬遷は李陵を弁護したために死刑の判決を受けてしまう。漢代では死刑を逃れるには銅50万銭を払うか、宮刑を願い出るかで、お金のない司馬遷は宮刑を願い、死を免れた。その後、大赦により、宦官として中書令になり、14年にして「史記」130巻を完成させた。「任少卿に報ずるの書」...