〇室町将軍御所の展開―上御所・下御所―
平氏の時代から、武士の住む場所は六波羅の辺りであった。武士の時代と言えども、鎌倉時代の終わりまでは武士は京都の真ん中には住めなかったのである。後醍醐天皇による建武新政期になり、地方の武士が洛中に入り込むが住む場所がないので貴族の作りかけの家、つまりは人の家を奪い取った(私宅点定)様子は『二条河原落書』にもある。
足利尊氏・直義の二頭政治期になり、将軍である尊氏は天皇を守る為に天皇と共に六波羅→押小路高倉(のちの等待寺)→土御東洞院→二条万理小路へと住居を変えていった。一方、直義は尊氏初期のパートナーのであり、実弟である。直義の屋敷は三条坊門で固定。尊氏は主従制的支配権を持っていたが、直義は統治権的支配権を持っていたので直義の周囲には多くの有力武士が集住していた。幕政の中心である直義の住む三条坊門が事実上の幕府であったと言える。しかし、この段階ではまだ将軍御所ではなかった。
尊氏が息子の義詮に政権を渡そうとした為に納得のいかない直義と尊氏の争い、観応の擾乱で直義が殺され、失脚した後、尊氏...