バブルが崩壊してからというもの、猛烈な人べらしリストラ、職場ではサービス残業と長時間労働、そして低賃金のパートタイマーがリストラされた人員の仕事を補ってきた。その結果、正社員としての仕事が減り、契約社員としての仕事が主流になってしまった。そのように、強者が生き残り、弱者が切り捨てられるような日本社会。私たち健常者の間でも広がる貧富の格差であるが、その中でも今回のビデオは、障害者など、さらなる弱者が悲鳴を上げているようなビデオだったように思う。今回はそのなかで障害者を例に挙げて、人の幸せについて述べていこうと思う。
障害者というのは、いったい何をもって定義されるのであろう。例えば足が不自由である人。足が不自由であるというだけで障害者と定義されるであろうか。医学的な見解ではそうであるかもしれない。しかし、足が不自由なままでは一人で食事をしたり、トイレに行ったり、身の回りの事を全て一人でやって、自立していく生活というのは難しいが、そこに車いすがあるとその人の生活は一変するだろう。車いすは、その人の足となり、食事をする時も、トイレに行く時も、車いすが足代わりとなってくれるであろう。このように、たとえ障害を持っていたとしても、代わりになるものを手に入れればそれは障害ではなくなり、普通に生活する事を可能とする。では、今日の社会、障害者にとって何が一番障害になるであろうか。それは家から外に出た社会そのものに障害があるのではないか。車いすで一歩外に出れば、段差が無数にあり、自由に進むことが出来ない。電車に乗ろうと駅に行ってみたもののなかなかエレベータが見つからない。これらはまだマシであるが、さらに悪いことには、障害を持っているというだけで人々からの奇異な目にさらされる。障害を持っているからなかなか仕事に就けないなど、社会が作り上げた障害がたくさんある。そういった社会が作り上げた障害というものは、私たちが取り払わなければならない。障害者にとって暮らしやすいようにスロープを整えたりするのは当たり前のことであるが、就労しやすい環境を整えたり、彼らに対する差別をなくすことが、彼らが幸せに暮らせる環境なのではないか。そういった社会的障壁をなくすことはとても大切なことである。
それでは、彼らが暮らしやすい環境を提供するのではなく、彼らの身体的障害を根本から取り除くというのはどうであろうか。近年、急速に医療が発達し、耳の聞こえない者にも、人工内耳を取り付ければ耳が聞こえるようになると言う手術があるという。さて、そのような人工内耳の手術を受け、健常者と同じように耳が聞こえれば、幸せになることができるのであろうか。その答えを探るために、次のような例を挙げてみたいと思う。この話は、耳が聞こえない小さな女の子が人工内耳を取り付け、健常者と同じように耳が聞こえるようになりたいと願ったが、彼女の両親が反対した例である。その小さな女の子の父と母は、両者とも耳が不自由であり、ずっと音が聞こえない生活を送ってきた。そして、その娘も遺伝的に耳が聞こえないのである。しかし、父母との時代とは違い、現在は、娘に人工内耳を取り付けることで、娘の耳が聞こえるようになるという。人工内耳は、大人になってからは取り付けることはできないが、娘のように小さい時なら取り付けることができる。まさに、今しか人工内耳を取り付けるタイミングはないというときである。娘は、人工内耳を取り付けたい、みんなと同じように耳が聞こえるようになりたいと願った。しかし、両親は、耳が聞こえなくても生活できるし、人工内耳はとりつけなくても
バブルが崩壊してからというもの、猛烈な人べらしリストラ、職場ではサービス残業と長時間労働、そして低賃金のパートタイマーがリストラされた人員の仕事を補ってきた。その結果、正社員としての仕事が減り、契約社員としての仕事が主流になってしまった。そのように、強者が生き残り、弱者が切り捨てられるような日本社会。私たち健常者の間でも広がる貧富の格差であるが、その中でも今回のビデオは、障害者など、さらなる弱者が悲鳴を上げているようなビデオだったように思う。今回はそのなかで障害者を例に挙げて、人の幸せについて述べていこうと思う。
障害者というのは、いったい何をもって定義されるのであろう。例えば足が不自由である人。足が不自由であるというだけで障害者と定義されるであろうか。医学的な見解ではそうであるかもしれない。しかし、足が不自由なままでは一人で食事をしたり、トイレに行ったり、身の回りの事を全て一人でやって、自立していく生活というのは難しいが、そこに車いすがあるとその人の生活は一変するだろう。車いすは、その人の足となり、食事をする時も、トイレに行く時も、車いすが足代わりとなってくれるであろう。このよう...