徒然草。枕草子、方丈記とあわせて「日本三大随筆」と評される古典の名著である。誰しもその名を一度は耳にしたことがあるだろう。内容は知らないが、名前だけは知っている、そんな人も多かろう。
教育の現場でも、古典学習の教材として多く用いられる。私自身も中学校時代に序段、「徒然なるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆく由無し事をそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」を暗唱されられた記憶がある。とはいえ、中学、高校を通じて学んだ徒然草といえば、思い起こされるのは、暗唱とお約束の品詞分解。扱った段も、全二百四十三段のうちのほんの一握りであった。故に、古典文学としてというよりは古典学習の教材として、読み楽しむというよりは読み解くものとして学んできたのである。一文を読むのに何分も要し、全体を「解く」頃には憔悴しきってしまう。こういった教育を六年間みっちり受けてきたらそれは、「古典はつまらない」という考えに至っても致し方ないのであろう。
更に、限られた授業時間の中で、時間の掛かる読み解き学習を行っていれば、必然的に扱う古典の数は限られてしまう。徒然草だけをそう何段も読み解いている時間は無いのである。そうすると、ひとつのテーマを軸として徒然草を読むことが難しくなる。どういうことかと言えばそれは、「女性観」というテーマで徒然草を読んだとき、三段の恋愛観から始まり、八段、九段の色欲、そして百七段からの女性批判へと続く流れが、実に面白いその流れが見えなくなってしまうことである。もちろん、授業はきっかけに過ぎず、古典作品への更なる追求は自主的にというのが基本なのかもしれないが、前述した読み解き授業では、その追求心を損ないかねない。これは非常に残念なことである。そこで本稿では、徒然草を「女性観」というキーワードで読み、段を通じての女性観の変遷を考察することとする。
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