佛教大学通信教育課程 2016年度対応 Z1312教科教育法英語 第二設題

閲覧数1,931
ダウンロード数14
履歴確認

    • ページ数 : 9ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    佛大通信、教科教育法英語のレポート第一設題です。C判定でした。リポート作成の参考にしてください。なお、所見は以下のとおりです

    ・第8章を簡潔に要約し、字数制限内にまとめてください。
    ・第9章の教師の情報収集に言及してください。
    ・小学校での英語教育に関する諸外国の実情にも言及してください。

    資料の原本内容

    テキスト第8章(英語の指導法)、第9章(英語授業を豊かにするために)、第10章(小学校における英語教育)をまとめなさい。
    ●はじめに
    『』付で記述した後に(15p)のように書かれている場合、それはテキストの15pから引用した文章である。また、テキストの内容を越えてしまいそうではあるが記述しておく必要があるだろうと思われる文章(考察など)については、原則、脚注によって記述している。
    ●第八章のまとめ
    ・全体について
     テキストにおける本章では、英語の指導法を四種類に分けて、一つずつ説明する形をとっている。本レポートでもこの形式に従い、記述を行う。
    ・訳読系
     文法・訳読法(Grammar Translation Method)と呼ばれるものがこの系統に入る。これは古くから欧州においてギリシャ語やラテン語といった語学の学習に使われてきた方法であり、また、現代でも多くの国々で採用されている方法である。
     外国語文を、学習者の母国語に翻訳する事を骨子とした指導法である。日本人に英語を教える際場合は、「英文を日本語に翻訳する」という形になる。そのために、文法のような「言語規則」を学習者に教え、一文一文、訳文を作る形で英文を理解させていく。英文を読んで、もしくは英語を聞いて、「日本語で言えと言われると困るけどなんとなく意味は分かる」というのではなく、完璧に日本語で説明できるようになる方を重視している。
     本テキストは、この指導法に対しては一貫して、否定的な見解を述べている印象を受ける。大人数に対して教える場合非常に効率が良いという利点は認めつつも、可能であるならば他の指導法を用いるべきである…と暗に述べていると言ってよいだろう。学習者からは本指導法の方が高い評価を得る場合もある、という可能性はほぼ考慮されていない。
     本指導法の課題については『英語の音声訓練が軽視され、無視されやすい』事や、『高度な内容の文章を解読するのには適しているが、リスニングやスピーキング能力の向上には結びつ』(136p)きにくい事が挙げられている。また、指導教員の指導力が足りていない場合、『不自然な訳文を生み出す可能性がある』場合や、『「日本語らしきもの」への置き換えはできても、内容は悪が行われていない危険性が生じる』(どちらも136p)場合がある。ただしこれらは、本指導法による授業が必ず惹起する問題という訳ではない。また、現在の英語教育は「英文読解・英文記述能力」の育成ではなく「英語コミュニケーション能力」の育成を重視しているため、『日本語への置き換え作業や翻訳することが目的化してしまう』(136p)可能性には注意を払うべきである。
    ・ダイレクト系
     本テキストでは、ダイレクト系としてダイレクト・メソッドが代表に挙げられている。これは訳読系の反省と反発から生まれたもので、語学授業において、母語の一切を排除するものである。日本における英語の授業ならば、日本語を一切使わず、ひたすら英語だけで授業を行う。外国語を母語に置き換えて理解するのではなく、外国語を外国語のまま理解し、習慣づける事を目的としている。
     訳読系の欠点を克服しようとする指導法ではあるが、いかんせん、初期の単純な英語を学ぶ時期はともかく、母語を禁じて高度な内容を学ぼうとすれば、理解に長い時間がかかる。また、学習者がどこかで躓いてしまうと理解不能のまま授業が進んでしまうというのはどの指導法でもそうだが、特に母語を禁止すればその危険性は顕著になり、そして、指導者が外国語を母語としていない場合(英語教師が日本人である場合)、指導者の負担は過大となり、また、授業の質が指導者の資質に左右され過ぎる面も出てくるだろう。
    ・オーラル系
     本テキストでは、オーラル系の代表としてオーラル・アプローチ が挙げられている。これらは、母語を禁止するダイレクト系の欠点を克服すべく発展したものである。
     オーラル・アプローチは口頭練習、特に反復練習を重視する。基本的となる英文を反復して練習する事により、単語の組み換えや、練習した英文の組み合わせによって、英語を習得できる、という指導法である。
     この指導法によって、無意識に英語を話せるようになったとして、『意識せず機械的に口頭で言えることが、言語を獲得したことになるのか?』(138p)という点が問題になる。すなわち、この指導法では、学んだ英文の単語を入れ替えたり、英文を組み合わせたりして英語を話せるようになる訳だが、そんな硬直的な状態で「英語ができる」と言っていいのか、という事である。また、基本的には学んだ英文の組み換えでしか表現できない以上、よくよく慎重にならねば学習者のコミュニケーションを束縛しかねない、という懸念もあるだろう。
    ・言語運用能力系
     これの代表としては、コミュニカティブ・アプローチが紹介されている。これ以前のアプローチは、原則、「正しい英語(外国語)」を扱えるようになる点に、重点が置かれていた。こちらは、正しさよりも流暢さに重点が置かれる。
     実際の会話の場では、状況に合わせて表現を変えていく必要がある。正しく、しかし硬直したたった一つの英語表現を習得しそれだけを使うのではなく、その場その場に合わせて、違った、適切な英語表現を行う……すなわち『選択的表現能力』(138p)を養う事が重視されるのである。
     現在の指導要領が、英文の読み書きなどではなく、英語でコミュニケーションをとれるようにする事を目標にしている事を考えれば、その目標に最も合致する指導法であると言えるだろう。
    ●第九章
     本章では、英語の授業の質を高めるためには教師にどんな能力・資質が要求されるか、という点について考察されている。
    ・英語力
     これについて重要なのは、英語教師はただ単に英語がうまければそれでよい、というものではないという点である。もちろん、英語教師が語学に堪能であるのは重要であり、ネイティブスピーカーと日常的に英語で会話し、もしくは英語で議論する事も可能、というほどに英語に熟練しているのは、一つの理想である。
     ただ、だからと言って、そういう英語に熟練した人間が必ず優秀な英語教師になれる訳ではない。例えば、実際の英語指導では、学習者のレベルに合わせて、より平易な英語を使う必要が出てくる。いくら英語が得意でも、学習者に理解できない高度な内容しか話せないのであれば、指導に障害が生じるのだ。そのため、専門書を読み解ける英語力よりは、相手に合わせて適切に表現を変える能力の方が必要とされる。自分が全部説明してしまうのではなく、相手(学習者)に気付かせるような話し方も必要となるだろう。その点、学習者だけでなく教師の側にも『選択的表現能力』が必要になると言う事ができる。
     また、日常会話や議論において頻出する表現・単語と、授業において頻出する表現・単語は異なる。日本語中心の授業であったとしても、適宜、英語を交えるのは有用であるから、クラスルーム・イングリッシュとして、そういう英語を抑えておく事もまた、教師の資質である。
    ・教養
     先程、ただ単に英語が上手いだけでは駄目、という旨を述べたが、これは英語に関する教養、という意味でもそうである。テキストでは例として、『”may”と”might”が使われている時それぞれの文で表現されている行為の可能性については、”might”は”may”の単なる過去形ではなく、”might”の方が”may”よりも行為の可能性が低くなる』(149p)というものが述べられている。こういう知識は、英語に堪能であれば知っているだろうし、帰国子女のようなネイティブスピーカーに近い人間も、もちろん知っているだろう。
     しかし、それは「知識」と言うよりは「なんとなく」「感覚」で知っている場合があり、「この2語はどう違うのか」と問われて初めて気付く、という事が往々にしてある。我々日本人が、「きっと」と「たぶん」はどう違うのかと問われて初めて、この2語を使った行為の実現可能性について考えるのと同じである。
     当然、「なんとなく」ではいけない。知識として、英語について教養を深めなければならない。また、言語は文化なしには発展しえないものであるから、アメリカもしくはイギリスの歴史・文化について教養を深め、また語源についての知識を深めていく事も、必要である。
    ・その他
     英語教師も、他の学科の教師と同じく、授業を行い、また学科教育を行う教師である。そのため、どの教師にも求められる一般的な資質も、求められるだろう。
     授業計画を立て、事前準備を行い、実際に授業を行い、悪かった点があれば次に生かす…という、言うは易く行うは難し、と評せるこのような資質は、英語教師にも求められるのである。英語教師になったからと言って慢心せず、英語能力の研鑽を続け、情報を集め続ける姿勢もまた、必要となる。
    ●第十章
     近現代において、英国、続いて米国という同じ英語を使用する国が覇権国となった結果、英語は事実上の世界公用語となった。近年、その世界公用語の学習の低年齢化は各国で進んでおり、それは我が国でも然りである。
     我が国の場合、小学校における英語教育は私立小学校から始まり、中には前大戦以前から教えていた学校もあった。早期英語教育への関心の高まりから、独自に取り組みを行う自治体も現れ、制度として小学校の英語教育を取り入れていく流れに繋がっていく。
     ただし、小学校で英語を教える事については、必ずしも賛成が100%を占めている訳ではない。特に「お題目は立派だが、教育リソースは有限である」という旨の現実主義的な(もしくは悲観主義的な)視点か...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。