エッフェル塔
エッフェル塔。世界中の誰もが知っていると言えるほど有名だと思う。しかし自分も含めて、エッフェル塔の存在自体は知っていても、その歴史や生い立ちまでを知っている人は少ないのではないかと思う。なぜなら、エッフェル塔について調べていくうちに、エッフェル塔がもつ様々な性格、歴史、担ってきた役割の多さに驚いたからである。そんなエッフェル塔が立っているところはいうまでもなくパリ。そのパリにおいて、エッフェル塔はどのような役割を果たしてきたのだろうか。エッフェル塔は1889年に誕生したが、それに至るまでの過程は約20年前の1870年にフランスとプロシアの間で起こった普仏戦争でのフランスの敗戦がきっかけであった。そしてその後に起こった内戦(パリ・コミューン)によりフランス国民は立て続けにショックを受けていた。そんな中、フランス国民は対独報復の念を抱いていたが、勝算のうすい軍事対決よりも、経済力を強化し、当時の英国に次ぐ強大な産業国家としてプロシアに脅威を与える方が効果的であるとする現実主義論が台頭した。フランス政府もその方策でいくことに決め、案を検討している過程で生まれてきたのが、世界の注目を集めるような大規模な万国博覧会をパリで開催する計画である。そして1884年に政府はフランス革命の百周年にあたる1889年に盛大にパリで万博を開催する基本方針を決定した。パリではそれまでに三回も万博が開かれていたため、今までにない前代未聞のアイデアが必要だった。そこで生まれたのが建築家ジュール・ブールデによる石の塔(太陽の塔)と当時すでに一流の建築家として通っていたギュスタブ・エッフェルによる「高さ300メートルの鉄の塔」を建設する計画であり、万博の目玉となる有力な二つの案が出たところで、コンクールを行って優勝を決めることになった。しかし、石の塔はその重量と風圧に対する抵抗、膨大な費用と日数がかかるという問題点があり、初めは有力視されていたがギュスタブの知名度からも優勝は鉄の塔にほぼ決まっていた。実際に、エッフェルの提案する鉄の塔は「フランス金属工業の傑作」になるものと判断され、審査員は満場一致、総計700の応募から当選した。世界的にみてもエッフェル塔は群を抜き、プロシアのみならず、全世界にむかって産業、科学技術先進国としてフランスを象徴することになるのである。また、当時には航空技術がなく、人々には空間に出る自由が得られず地上にしばりつけられたままの状態であったため、「地上からの解放」を実現する唯一の方法として賢固な高層建築物を建築することであり、そういう意味でエッフェル塔は現代においてスペースシャトルが人類を地球から「解放」したのと同じような画期的な役割を演じたわけで、単なる万博の客寄せのための目玉ではなかったといえる。万博自体、平和手段による最も効果的な国力誇示の場であったため、エッフェル塔は19世紀に建てられた軍事的栄光のシンボルである凱旋門とは対照的に、平和的かつ産業的栄光のシンボルでもあった。しかしあまりに奇抜な計画だったので、なかには動揺する人々や批判の声もあった。批判の声は作家、詩人などの文化人からであり、モーパッサンやユイスマンスは「パリに鉄塔を建てるとはパリの名誉を汚すものだ」と約300人が反対署名に名を連ねた。これらの文化人にとってパリは文化の殿堂であり、エッフェル塔のことを「発狂したピラミッド」、「空っぽなシャンデリア」、「立派な金物」、「無用な怪物」など容赦ない批判をしている。1900年の万博では、塔のまわりを他の建築物で囲んで見えなくする
エッフェル塔
エッフェル塔。世界中の誰もが知っていると言えるほど有名だと思う。しかし自分も含めて、エッフェル塔の存在自体は知っていても、その歴史や生い立ちまでを知っている人は少ないのではないかと思う。なぜなら、エッフェル塔について調べていくうちに、エッフェル塔がもつ様々な性格、歴史、担ってきた役割の多さに驚いたからである。そんなエッフェル塔が立っているところはいうまでもなくパリ。そのパリにおいて、エッフェル塔はどのような役割を果たしてきたのだろうか。エッフェル塔は1889年に誕生したが、それに至るまでの過程は約20年前の1870年にフランスとプロシアの間で起こった普仏戦争でのフランスの敗戦がきっかけであった。そしてその後に起こった内戦(パリ・コミューン)によりフランス国民は立て続けにショックを受けていた。そんな中、フランス国民は対独報復の念を抱いていたが、勝算のうすい軍事対決よりも、経済力を強化し、当時の英国に次ぐ強大な産業国家としてプロシアに脅威を与える方が効果的であるとする現実主義論が台頭した。フランス政府もその方策でいくことに決め、案を検討している過程で生まれてきたのが、世界の注...