黒澤明監督の『羅生門』は、芥川龍之介の『藪の中』が原作である。この物語は劇中殆どの話者が自分の都合の良い「嘘」を並べ立てることで事件の謎は深まり、その真相は物語を超えて未だ数々の議論がなされている。この作品はさだまさしの「検察側の証人」にもみられるように、作中では「検非違使」の様な当事者以外の他者が一体どのように事件の「真実」を求めることができるのかという興味深い示唆を残している。このことは勿論、歴史の真実性や現在起こっている様々な事件・事象にも通ずることであり、その「真実」を我々が如何にして追い求めることが出来るのかということが、現代社会を解明する上での重要なツールとなるものであろう。
そもそもこの作中では、証人各々の証言が一致しないことから、誰かあるいは全ての証人が「嘘をついている」ともとれる。しかしその「嘘」のみに焦点を当てるのではなく、彼らの主観にも着目したい。仮に映画『羅生門』で木こりが最後に語った言説が「真実」とするならば、妻:真砂と巫女の口を借りた夫:武弘の証言には、結末を大きく変える明らかな「嘘」をついているといえる。しかし盗人多襄丸の証言はどうだろうか。細かな点では多く違いが見受けられるが、犯人が多襄丸であることと、妻の殺人教唆については食い違ってはいない。ここから考えられるのは、多襄丸の見栄ともとれるが、同時に多襄丸すら気づいていない主観が入り混じり、木こりが語る「真実」と食い違ってしまっているのかもしれない。それは、逆に言えば木こりの語る「真実」すら木こりの主観的世界であり、それを真実として絶対的に認めることの危険性すらも想起させる。ここでいう真実というのは、ある時点での全てを知るということである。
主観による「物語」と「事実/史実」の近接性
目次
1.『羅生門』の真実性
2.「物語」に触れる行為と「事実/史実」に触れる行為の近接性
3.「他者の主観的物語」から導き出す「客観的事実」
1.『羅生門』の真実性
黒澤明監督の『羅生門』は、芥川龍之介の『藪の中』が原作である。この物語は劇中殆どの話者が自分の都合の良い「嘘」を並べ立てることで事件の謎は深まり、その真相は物語を超えて未だ数々の議論がなされている。この作品はさだまさしの「検察側の証人」にもみられるように、作中では「検非違使」の様な当事者以外の他者が一体どのように事件の「真実」を求めることができるのかという興味深い示唆を残している。このことは勿論、歴史の真実性や現在起こっている様々な事件・事象にも通ずることであり、その「真実」を我々が如何にして追い求めることが出来るのかということが、現代社会を解明する上での重要なツールとなるものであろう。
そもそもこの作中では、証人各々の証言が一致しないことから、誰かあるいは全ての証人が「嘘をついている」ともとれる。しかしその「嘘」のみに焦点を当てるのではなく、彼らの主観にも着目したい。仮に...