フィッツジェラルドの『偉大なギャツビー』とヘミングウェイの『日はまた昇る』から、一見すると似たような感じのする女性、ディズィとブレットを比較していきたい。
『偉大なギャツビー』は、ギャツビーがディズィをとても愛しているという思いと、それと同時に、自分自身が憧れるような人に成りたいという思いが描かれているのである。この物語のおもな登場人物は、主人公のギャツビー・昔の恋人のディズィ・ディズィの夫のトム・トムの愛人のマートル・マートルの夫のウィルスンである。なぜ、先に述べたことが言えるかというと、文の中に、ギャツビーが暗い海に向かって両手を震えながら差し伸べ、桟橋の突端の緑色の光を見つめていたところがある。ギャツビーは、憧れる自分を捕まえようとしていると同時に、ディズィをも自分の手にしようとしている。後に、ディズィと再開したときに、緑の光が持っていた巨大な意味が永遠に消滅してしまった、というところからもわかる。ギャツビーは、ディズィと別れた後も彼女のことを愛していたし、また、ディズィも自分のことを愛し続けていると思っていたのである。しかし、ディズィは昔のディズィではなくなっていたのである...