ジョン・ウェスレー研究の現在
1 ジョージ・セルのテーゼの問題
a)1970年代までの研究−—西方キリスト教の伝統の枠において解釈
1)1738.5.24.アルダスゲイトの回心体験
→<信仰のみ、恵みのみ>西方プロテスタント神学の立場に精通
・モラヴィア派からのルター派信仰の影響
・ピューリタンの両親のカルヴァン主義の影響
2)1725年以降の神秘主義的著作への傾倒による霊的研究
→キリスト者の理想的生活として世界・完全について学ぶ
3)国教会の神学的立場 カトリックとプロテスタントの中庸(via media)
→この伝統下で育ったウェスレーはルター派/改革派の伝統に精通すると同時に、カトリックの聖なる生活・成長、完全と云う思想を神学の中心に据えていた
b)1980年代以降の研究
・義認信仰中心の西方の神学圏でウェスレーの神学思想の系譜を確定することは困難
——プロテスタントもカトリックも義認概念を中心に神学を展開するが、「カトリックの功績 に基づく義認をプロテスタントの信仰義認の文脈に共存させる道はない。」?
→ウェスレーの聖化・完全理解をカトリック的立場から解釈することはできない
c) ジョージ・セルのテーゼ
ウェスレー神学は「プロテスタントの恵みの倫理とカトリックの聖の倫理との前例のない独創的な統合である」
→義認と聖化・完全との独創的な統合は信仰のみを神学的な鍵とするプロテスタントの神学的文脈では成立しない。
――神の単働説(monergism)や改革派特有の神の主権性(sovereignty)の立場からの統合の試みは失敗に終わる
d) W.R.キャノン
神の恵みと人間の応答による救いを語る神人協働説の立場からセルを批判し、義とする神の 働きとこの神の働きに対する人間の応答性を強調してウェスレー神学を解釈する
「神の先行性と人間の応答という一般的な叙述方法は、もちろん、ウェスレーの教えを描く際の正しい描き方であるが、しかしより正しく理解されるならば、人間の先行性と神の応答という概念が同様に正しい描き方で彼の神学の中に内在している」
→キャノンは人間の応答性を神の恵みの外に位置づけ、神の恵みに先んじて、応答する人間の先行性を主張し、セミ・ペラギアン的解釈を施してしまう
e) C.W.ウィリアムズ
ウェスレーは聖化の教理を信仰義認というプロテスタントの伝統に置き、カトリックの信仰 と業とによる義認という文脈の中で理解することはなかった
→義認と聖化の両者を信仰のみに基礎付けることで、聖化を展開する場を失う
f) ディシュナー
ウェスレーの義認の教理は「単なる宗教改革者の再現ではなく、聖化の要求を満たすように 形成されている独自の義認の教理」であり、「今日に至るまでプロテスタント神学における新しい強調」と解釈した。
→「神と人間、恵みと自由、信仰と行為、義認と聖化・完全と共存する構造」
ディシュナーの解釈内容
→→もし単働説や神の主権的恵みの主張が人間の自由を否定せずに人間に信仰や聖化をもたらし、人間のあらゆる応答は神の恵みに全く依存するという意味で単働説が理解される場合、単働説・神の主権性は人間の自由.応答と共存する。同様に神人協働説が神の恵みに先行する人間の応答性の主張ではなく、人間の応答は先行する恵みによって可能であると理解されれば、神の主権性は否定されない
→→→神の主権性と人間の自由な応答との共存/二重性こそが本来の神人協働説のいみである、
ウェスレーの義認と聖化の統合構造である。
*如何にして義
ジョン・ウェスレー研究の現在
1 ジョージ・セルのテーゼの問題
a)1970年代までの研究−—西方キリスト教の伝統の枠において解釈
1)1738.5.24.アルダスゲイトの回心体験
→<信仰のみ、恵みのみ>西方プロテスタント神学の立場に精通
・モラヴィア派からのルター派信仰の影響
・ピューリタンの両親のカルヴァン主義の影響
2)1725年以降の神秘主義的著作への傾倒による霊的研究
→キリスト者の理想的生活として世界・完全について学ぶ
3)国教会の神学的立場 カトリックとプロテスタントの中庸(via media)
→この伝統下で育ったウェスレーはルター派/改革派の伝統に精通すると同時に、カトリックの聖なる生活・成長、完全と云う思想を神学の中心に据えていた
b)1980年代以降の研究
・義認信仰中心の西方の神学圏でウェスレーの神学思想の系譜を確定することは困難
——プロテスタントもカトリックも義認概念を中心に神学を展開するが、「カトリックの功績 に基づく義認をプロテスタントの信仰義認の文脈に共存させる道はない。」?
→ウェスレーの聖化・完全理解をカトリック的...